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ソウル2012〜「浅川巧日記」を歩く Feed

2012年10月20日 (土)

「浅川巧日記」を歩く(後編)〜巧さんのお墓

体は頑丈であったのに、それを過信しすぎたか、巧さんは40歳の若さで肺炎でなくなった。(1931年)

「浅川が死んだ。取り返しのつかない損失である。あんなに朝鮮の事を内から分つてゐた人を私は他に知らない。ほんとうに朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうしてほんとうに朝鮮人からも愛されたのである。死が伝へられた時、朝鮮人から献げられた熱情は無類のものであった。棺は進んで申し出た鮮人達によつてかつがれ、朝鮮の共同墓地に埋葬された。」(柳宗悦:編集余禄 「工芸」1931年5月号

巧さんの亡がらは白いチョゴリ・パジに包まれ、彼を知る多くの朝鮮人がお別れにかけつけ嘆いたそうである。
棺は朝鮮人が自ら進んで担いだ。
あの日鮮の不幸な反目の時代において、、、である。

彼の亡骸は里門里の朝鮮人共同墓地に葬られたが、墓地の移転に際してソウル近郊の忘憂里(マンウーリ)共同墓地に改葬された。
その後歴史の混乱のなかで、彼の墓は行方がわからなくなった時期もあったそうだが、職場でもあった林業試験場の職員達の尽力で再び発見され、きれいに整備され今にいたっている。

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宏大な忘憂里共同墓地、203363号。


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1984年8月、林業試験場職員一同によって建てられた顕彰碑。


 韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に 生きた日本人、ここ韓国の土となる


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巧さんはこの墓地に葬られている唯一の日本人。
出生地に「日本國」がついている。

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漢江をのぞむ小高い丘の上。

さわやかな風が吹いて、ここは巧さんのふるさと、山梨北巨摩郡(現・北杜市)の景色に似ているだろうか。

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近年訪れる人がふえているそうで(韓国人もふえていることを願う)、お供え物など残って古くなったのをとりのぞき、みんなで手分けしてきれいにする。

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朝鮮は土葬なので、お墓の実体は後のこんもりとした土饅頭。

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韓国式祭祀(チェサ)の準備はすべてガイドの姜さんがととのえてくださった。

韓国式礼拝の仕方は林業研究所でお世話になった白さんが自らおしえてくださる。

これにならって全員が巧さんのお墓の前で、ぬかずく。

とても自然な気持ちで頭をさげた。
写真の中でしかしらない巧さんを身近に感じた気がする。

この奇跡のような人間が、確かにこの地に生き抜いたのだ。
そして、ここに眠る。

この墓参りこそ、今回この旅に参加した一番の理由だった。


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とても彼のように生きることはできないが、人間として背筋を伸ばさなければならないとき、ふと彼の生き様を思い出すことで背中をおしてはもらえまいか。


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お参りのあとはお供え物をみんなでわけていただく飲服という習慣が韓国にはある。


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基本的になまものなので、栗も生で口にする。
お米のケーキのような物は薬食(ヤクシク)といってお盆の時に本来食べるものだそうな。

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これからもずっとこの丘に眠り続ける巧さん。
お別れの時です。


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その墓地で採取した葉(ドングリ系か)を押し葉に。
見るたびに、いつでもあの忘憂里の丘にふいていた風を思い出せるかな。


「巧さんの生涯はカントのいつた様に、人間の価値が、実に人間にあり.それより多くでも少なくでもない事を実証した。私は心から人間浅川巧の前に頭を下げる。」

(安倍能成:浅川巧さんを惜む 「京城日報」1931年4月28日〜5月6日)


   *    *    *

今回ご一緒させていただいた方々はそれぞれの方面で浅川兄弟に興味をもっておられ、熱く彼らのことを語れたのはうれしい体験でした。
なにより現地に何十回も足を運んで韓国人よりもよく現地事情を知っているといわれ、豊富で誠実な人脈を築いてこられたこのツアープロデューサーの山本先生には驚きでした。
こんな熱い研究員さんがいるから、最近高麗美術館、メジャーになってきてるんですね。
そして楽しく気持ちよく旅することができたのは現地ガイドの姜さんのお人柄のおかげです。
これまた誠実を絵に描いたような白さんに、ちょっとだけ巧さんの面影をかさねたりして。

皆々様、ここに深く感謝いたします。


2012年10月19日 (金)

「浅川巧日記」を歩く〜韓国2012(中編)

かくて浅川兄弟の時代、青磁のその技法は朝鮮では失われてしまっていた。

兄の伯教は朝鮮中の窯場を回って調査していたが、いつの日か池 順鐸(チ・スンタク)という少年を手伝いとして連れて歩くようになる。

伯教や柳宗悦は、彼に失われた朝鮮青磁、白磁の美しさを説き、それを復活させようと決心した彼を叱咤激励した。
やがて十数年の時を経て、池 順鐸は500年ぶりに朝鮮青磁をこの世によみがえらせた。


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のちに朝鮮陶器で人間国宝となった故・池 順鐸氏その人である。

彼の出身地であり、かつての朝鮮古陶の故郷、現代に復活した陶芸村として約300の窯場がある利川(イチョン)。
ソウルから車で薬1時間。
ここに彼の窯場がまだ残っているのを訪ねる。

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登り窯。

毎度漫画の話で恐縮だが、「へうげもの」で秀吉の朝鮮出兵の折、織部が朝鮮で登り窯という新しい技術を目の前にして驚く、というシーンを思い出す。


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池氏は青磁のみならず、白磁や粉青沙器もたくさん焼いた。

それらがいくつか展示されている。

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白磁の大壺。
手の大きさと比べてね。

思わずなでなですりすりしたくなるような、、、、

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秀逸はこの萩風?井戸茶碗。

井戸茶碗は日本の茶人に愛されたが、朝鮮には一つも残っていない、というこの不思議。

利休の時代、日本で人気になったこの井戸を、注文を受けて焼いていたのが朝鮮の倭館や借用窯だと言うが、これを現代にそのまま置き換えて、本物は手に入りそうもないので、これなら、、、、やっぱり人間国宝ともなると無理かcoldsweats01

同じく利川に窯を持ち、高麗青磁では現在韓国の第一人者、金正黙(東谷)氏の窯をたずねる。
彼の作品は多く国宝になっているとか。

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登り窯で息子さんの説明を聞く。
窯をたく松の木の薪がたくさん積み上げられているのが印象的だが、現在この薪も輸送にかなり費用がかかるようになったとか。


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窯場の横には失敗作をわった破片がいっぱい。
一個もらえないだろうか?coldsweats01

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青磁の象嵌部分に白い釉薬を埋め込む作業。

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右:作業前
左:作業後

これを素焼きして、最後に青磁の釉薬をかけてまた焼き、完成する。

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国宝級のものはさすがにないが、手頃な作品がこちらでもとめられるので、抹茶茶碗を一つもとめた。

分類でいえば粉青沙器、剥地という掻き落し手法を使ったもので、金氏御大にてづから箱書きをしてもらう。

ついでにあつかましくも銘をお願いして、つけていただいたのが「野菊」。
読めないが、ハングルで書いてもらった。

この茶碗をとりだせば、野菊の咲く季節、韓国に巧さんの足跡を訪ねたことをいつも思い出すにちがいない。


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ひとなつっこい、ここのわんこ。


さて、場所かわって広州(クァンジュ)へ。
ここはかつて官窯であり、王宮で使われる焼き物ばかりを作っていたところ。

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ここには京畿陶磁博物館がある。さすが焼き物の町。


京畿道にある初期青磁や白磁から近代・現代陶磁に至るまで、資料収集・保存・研究・展示を目的とする施設。

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ここでもう一度朝鮮陶磁の歴史のおさらいをする。


12世紀、中国の影響を離れて独特の「翡色(日本では秘色とも)」の高麗青磁を作った時代。
14世紀李氏朝鮮の成立とともにさかんになった粉青沙器(三島、粉引、刷毛目など)の時代。
16世紀からこれに取って代わった白磁の時代。


韓国では壬申倭乱というそうだが秀吉による文禄、慶長の役は焼き物戦争とよばれ、多くの朝鮮陶工が日本に連れてゆかれ、一時陶磁器産業は廃れる。

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これは当時、倭人によって窯場が漢江支流の奥へ奥へと追いやられていった窯場の場所の変化を示した地図。


江戸時代にはいわゆる「高麗茶碗」を日本向けに作っていた。

19世紀〜の歴史的混乱の中、朝鮮陶磁が廃れていった時代に彼ら、浅川兄弟はその美しさを再発見し、地道な窯場の調査をした、、、というわけだ。


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まもなく始まる特別展のためにすえられたオブジェはもちろん白磁だろうな。

そう、実はこの日は休館日だったのだ!
にもかかわらず入館できて説明まで聞けたのは、山本先生の力以外のなにものでもない。


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もう一つ、休館日をむりに入れてもらったcoldsweats01分院陶磁器資料館。


分院は130年間続いた朝鮮時代最後の官窯であった。


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おびただしい古陶磁の破片。

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発掘の様子を再現したものと(お休みにも関わらず)説明してくれた学芸員さん。


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破片ではあるが、こんなに無造作においてていいのか?

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ここにこんなポスターを発見し、うれしくなる。

右端の白磁蓮花紋大壺は安宅コレクション(現・大阪市立東洋陶磁美術館)のシンボル。
伯教さんがソウルに家をたてるため、手放したもの。

ハングルはさっぱり読めないが、きっとそんなことは一行も書いていないのだろうなあ。


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施設として最後におとずれた国立中央博物館。
なんというでっかい物を建てたものだ!

しかも無料!!!

朝鮮総督府の建物を使っていた時代の紆余曲折を経て2005年に竣工した博物館は韓国の威信をかけている感じがひしひしと。

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小学生やら中学生やらが来る来る。
それでもすかすかするくらい広い。


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三島(粉青沙器)

私たちが見るのは朝鮮古陶磁のコーナーだけだが、それでも広い。

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白磁コーナー。


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このあたりが浅川兄弟や柳の朝鮮民族博物館にあったものか。
たぶんここにも彼らの名前は書かれていないだろうなあ。

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このトックリの下の部分(もちろんこれは、それそのものではないよ)を伯教は初対面の柳へのおみやげとし、それから柳は民藝という道を歩み始めた記念すべき白磁。(秋草紋面取壺)


そして、、、


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白磁の人。

次回、今回のツアーのハイライト、巧さんのお墓へのお参りのことを書こうと思う。

「浅川巧日記」を歩く〜韓国2012(前編)

(これまでの浅川兄弟の記事:浅川兄弟ってだれ?という方に、ちょっとした入門編、、、かも)

浅川兄弟との出会い

東洋陶磁美術館:浅川兄弟の心と眼

映画「道〜白磁の人」

 墓碑:「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に 生きた日本人、ここ韓国の土となる」

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(ソウル国立中央博物館)

浅川伯教・巧兄弟と初めてであった高麗美術館の見応えのある展示。
これによって彼らの仕事のみならず、とくに朝鮮の土となった弟の巧さんの生き方にとても心惹かれた。


生前の彼を知っていた人たちは日本人であれ朝鮮人であれ、彼の人間性を愛したという。
(とくに民藝への道を彼らによってひらかれた柳宗悦の追悼文はほんとうに泣かせる。)

そして後世のわれわれも、その日記やゆかりの人々の回想によって、また彼を敬愛する。

映画「道〜白磁の人」はそういう人々の努力によって日韓合作で作られたのだ。
この映画の公開記念講演会にでかけて、高麗美術館研究員山本先生の話をうかがう。

そこで美術館主催・山本先生プロデュースかつ講釈付という「浅川伯教・巧兄弟、柳宗悦ゆかりの地をたずねる」ツアーを知り、仕事をうっちゃって(coldsweats01ご迷惑をおかけした諸氏にごめんなさい)でかけたのはいうまでもない。


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ソウル観光名所のひとつである景福宮。
以前も行ったことはあるが、ほんとうになにも知らなかったな、と思う。


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宮殿の入り口の正門、光化門。

1910年の日韓併合後、朝鮮総督府がこの門の取り壊しを検討したとき、「失われんとする一朝鮮建築のために」という評論を書き、それに強く反対したのはかの柳宗悦であった。
それによって光化門は正面から移築されることによって破壊をまぬがれたという。(後に朝鮮戦争で焼失)

現在の光化門は2010年に位置を修正して再再建されたもの。


(ちなみに今観光客が歩いているところはかつて朝鮮総督府の建物が偉容、あるいは異容を誇っていた。その後博物館になったが紆余曲折、侃々諤々の議論の後、金泳三大統領が撤去を決めた。)

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これも以前は軽くスルーしてしまった緝敬殿(しゅうけいでん)。

浅川兄弟とと柳宗悦が中心となって奔走し設立した朝鮮民族美術館があった場所がここだったとは。
(そんなこと景福宮のパンフレットにも書いていない!)

当時の中の写真を見たことがあるが、建物自体は修復されたものなので、残念ながらもう面影もないであろう。
いかんせん、時が経ちすぎて、その後の朝鮮の歴史も混乱しすぎて。

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この五重塔のような建物は景福宮内にある国立民族博物館。

朝鮮民族博物館のコレクションは、戦後アメリカ軍がその価値を認め民族博物館へ吸収させたが、その後転々と紆余曲折を経て(先ほどの朝鮮総督府の建物内にあった博物館にあった時代も)、この民族博物館、国立中央博物館などへ流転していった(らしい)。

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ここは民族生活史を小学生の子供にもよくわかるように展示していて、見ていて楽しい。


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これからの寒くなる季節、村中総出でキムチ作りをする風景。

自国の文化、歴史を国民にしっかり教え込もう、という姿勢は日本も見習うべきであろう。(偏狭なナショナリズムに陥らない限り)


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李朝家具。(垂涎!)


この美しさにほれこんだのが始まりだったような気がする。

ここから民藝、柳宗悦、そして浅川兄弟への道が開けた。


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十二弦の伽倻琴(カヤグム)。


『中国の箏や日本の琴が多文化国家のミュージックシーンの一部となった今日でも、沈黙し続ける伽倻琴の声なき叫びは伽倻琴の来歴を韓国という国自体の歴史に反響させているかのようだ。』(


そして、、、

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なにより心惹かれる白磁の壺。

あたたかいぬくもりのある「白」。

それに多くの人が巧さんを重ねたのだなあ。


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清涼里(チョンニャンリ)。

かつて巧さん家族が住んでいた場所であり、職場であった林業試験場(現・国立林業研究所)がある場所。

「清涼里から狐が来たよ。」

当時西小門に住んでいた兄、伯教と同居していた母は巧が来るたびにそう言って笑ったそうな。
なぜならすぐに骨董店めぐり(民族美術館設立のために)に伯教を連れ出していってしまうから。


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林業試験場(現・国立林業研究所)。

ここで働いた巧は林業研究員としても画期的な「露天埋蔵法」という発芽方法を発見するという業績を残している。

当時、彼が樹齢30年ほどの松の木をここに植樹した。

その木が80年ほどの時を経て、ここにある。

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同じ時期にいっしょに働いた試験場の人、彼を直接は知らないが先輩方に話をきいていた後世の職員たちが、何年も何年もこの木を大事にしてきたことを思うと、ふと熱い思いがこみ上げる。

日本による植民地統治という歴史がありながら、なお、それだけ朝鮮の人に愛された巧さんという人。


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あなたが見ていた空もこんなに青かったでしょうか。

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林業試験場を案内して下さったソウルの「浅川伯教・巧兄弟記念事業会」副会長の白(ペク)朝鍾さんと現地ガイドの姜さん(明るい彼女のおかげでとっても楽しく勉強できました!)。

この石碑は国立林業研究所になってから初代の所長だった趙在明氏の記念碑。
巧さんが亡くなったあとに生まれ、面識がないにも関わらず、戦後巧さんのお墓をずっと守ってこられた方。

ここには朝鮮半島にあるすべての樹木があるそうで、巧さんはそれらにすべて名前をつけたとか。


おりしもカササギ(韓国ではカチ)の鳴き声を聞く。
日本では天然記念物だが、ここでは市の鳥。
カチカチとなくからカチ。
でもシャシャシャシャ、、、、と聞こえた。

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研究所の向かいは巧さん旧居跡。


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隣接するなだらかな丘には日記によくでてくる尼寺・清涼寺(当時は文化サロンのような場所だったとか)があった場所。

尼さんの所へ行ってご飯を食べて、遊びに来た妓生とおまわりさんがけんかを始めて大変だった、、、というような日記の記載があったのは清涼寺のこと。


清涼寺は、1899年暗殺されたかの閔妃を後年移葬する場所としてここから移転させられたためここにはもうない。

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この場所もかつての面影はなく、ハングル文字を発明した世宗大王記念館となっている。


この移転させられた清涼寺までも訪ねる。
(すごいわ、このツアー)

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市街地の近代的な建物のはざまにある、現在の清涼寺は今でも尼寺。
若い尼さんの話を聞く。猫も聞く。


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甍のカーブが日本寺院でもなく、中国寺院でもない。
干してあるのは尼さんの作務衣。


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先ほどの信心深い(?)かわいい三毛ちゃん。


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二年前からここに住み着いている野良だけれど、「美香(ミッカ)」という名前をもらって、尼さんにはデレデレ。


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前編最後は雪濃湯(ソルロンタン)。

巧さんの日記にさかんにでてくる朝鮮料理。

牛の肉・骨・内蔵を長時間煮込んで作るスープで、好きだったらしい。

巧さんは友人が来たらよくこれを食べにつれていくのだが、スープに牛の頭などが浮いていて(今ではそんなことはない)ちょっと閉口したという証言もあるシロモノ。

スープ自体は淡泊なので、カクテキやキムチ、塩をいれて自分で味を調整していただく。
こってりが、けっこうクセになりそう。


(中・後編に続く。あと少しおつきあいください)