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2008年11月22日 (土)

スイス映画「マルタのやさしい刺繍」

スイスで大ヒットした映画です。(ドイツ語あとちょっとのフランス語)

時間をやりくりしてやっと見に行くことができました。

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原題は"Die Herbstzeitlosen"

コルチカムという花の名前で、直訳すると「秋の時知らず」

花の少ない秋に咲くので、人生の秋を迎えてからもう一花咲かせる主人公達の象徴にもなっています。

舞台はスイスのエメンタール地方(エメンタールチーズが有名)というまだまだ封建的で、敬虔なカトリック信者の多い片田舎の町。

夫に先立たれ悲しみからすっかり鬱状態になりひきこもっている80歳のマルタ。

たのまれていた村のコーラス団の団旗の修理材料を調達するためにバスに乗って、ベルンへでかける。
ベルンの生地屋で、美しい色とりどりのレースやシルクの布を見て、さわっているうちに、若かりし頃の夢を思い出す。

それはパリのシャンゼリゼに自分で縫いあげた美しいランジェリーのお店を出すこと。

それは夫からあきらめてくれと頼まれ、かなわなかった夢。

彼女はその夢を今こそかなえるべく、鬱状態からたちなおり、行動を開始する。

とはいえ、小さな、因習深い村のこと、ランジェリーショップなんていかがわしいと村の人たちは罵倒したり、軽蔑したり、いやがらせをしたりと前途多難。

牧師をしている息子のヴァルターも、「いい歳をしてみっともない!」と母親の夢を理解しようとしない。

唯一の理解者で協力者のシングルマザーのリジー。
彼女もアメリカかぶれと陰でいわれている。

最初は批判的だったフリーダとハンニ。

フリーダは元社長夫人で夫に先立たれたあと、大金をはらって高級老人ホームにいるが、皮肉屋で、かたくなな心でまわりとうち解けようとしない。

ハンニは牧場の仕事をしながら車椅子の夫の介護をしているが、その通院に車で往復3時間かかるのため、運転をいやがる息子フリッツに、自分の仕事のさまたげになるから、遠くの老人ホームへ行けといわれる。

4人の老女それぞれが決して幸せな境遇にいるわけではない。

親子関係も子が親を一方的に押さえつけている。


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決して声高に主張はしないけれど、村人の非難やあざけりをさりげなく受け流し、困難に立ち向かい、自分の夢をあきらめずに実現させようとするマルタ。

昔習った下着作りを思い出すためにミシンと格闘し、彼女が作りあげたランジェリーはとても上等で気品があって、そして美しいものだった。

彼女の姿にいつのまにかフリーダもハンニもそれぞれ新しい一歩を踏み出すために、マルタをサポートするようになる。

夫と二人で自立するため、通院の車を自分で運転できるようにと、教習所へ通い始め、息子フリッツの横槍には家出で対抗するハンニ。

老人ホームの職員や同じ入所者に協力をあおぐことで他人に心をひらいていくフリーダ。
彼女はホームのパソコンクラブでインターネットを習い、村では誰も買ってくれないマルタの下着をネットで売ることを考えつく。

その際、製品に特徴を持たせようと、下着1枚1枚にエメンタール地方独特の小さな刺繍をいれることにした。

それが評判をよんで注文がたくさんくるようになる。

刺繍が間に合わなくなり、フリーダのホームの刺繍クラブの人たちに応援を頼むなど村人をまきこんでいく。いつしか批判的だった人たちの中にも理解者が増えていく。

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順調に見えるその中、最後までのこる敵が息子達、ヴァルターとフリッツだった。


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これはマルタの店からヴァルターがランジェリーを撤去し、ゴミ箱に捨てたのを夜中に4人で回収に行く場面。

4人の老女がへこたれないでしたたかに生きている象徴的なシーン。

ついに男性コーラス大会の日、マルタは息子達と対決する。

、、、、、、、このあとは是非映画をご覧下さい。

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私の年代としてはこの映画、二つの違う視点から見ることができました。
いずれくる未来の自分の老年期のモデルとしてのマルタたちの視点と、老親の介護を考える子供達世代の視点からと。

もう歳だから、年甲斐がないから、、と一体いくつのことを歳をとるとあきらめなければならないのだろうか、と漠然と老年期は孤独な物、暗く寂しいもの、、と考えていたのですが。

自分で自分を「老人」という枠におしこめて、(だれもそうしたってほめてくれるわけでもないのに)人目だけを気にしてすごすことが果たして「生きている」といえるのかどうか。

生きているとは、少しの勇気があって、自分のしたいことがあって、困難と闘いながら実現しようとすること。
それは歳をとっても同じはず。

実際には、歳をとってから健康体であるとは限らないし、したいことを続けるモチベーションをどこまで保てるかわからないけれど、なにかの拍子にこの映画のテーマを思い出せたら、、と思う。

(97歳でミニミニキューピーの洋服をお孫さんのお店のために編み続ける元気なひさのちゃんがマルタにかさなります。キュートです。かくありたいものだな〜。)

次に息子世代の視点から。

この映画では夢を叶えようとする老人たちを押さえつけ、物事を決める権利を徹底的に否定する「悪役」になっています。

でも今、私はこちらの世代に属するので、ついつい感情移入をしてしまいます。

仕事に脂ののっている一番忙しい責任の重い世代であり、親を思わないではないのだけれど、つい自分の都合を優先させるために頭ごなしに「勝手なことをするな!」とコントロールしようとする、、、。

思い当たることがないではないので、少し我が身を反省。

年寄りをなにもできない幼児扱いをするのはまちがっている。

親だと思うとよけいに遠慮なく抑圧してしまうのはつつしまなければ。

最後に、村人も息子達も思わず拍手を送ってしまうマルタの言葉。
かみしめたいです。


「見つけたの。生き甲斐を。
   喜びもね。 そう、生きる喜びよ。 歳は関係ない。」

2008年2月 3日 (日)

南木 佳士 「トラや」

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最初書店の新刊本のコーナーで見たとき、あれ?「トラや」って、わりと昔の本では?と思ったが、いや、あれは内田百�の「ノラや」だった!
でも当然、この作品を意識してつけたタイトルだと思う。
文庫本をほんの一まわり大きくしただけの小さい本で、半日あれば読めます。

作家であり、内科医でもある作者の自伝的作品で、特に鬱で苦しんだ数年間のできごとを、その間家族の生活によりそった猫、トラへの思いをからめて綴っています。

南木 佳士さん、という作家の名前は知らなかったが、映画にもなった「阿弥陀堂だより」の作者と聞いて、ああそうか、と。
あのお話も鬱で苦しむ奥さんが出てきていました。

信州の病院の内科医である「私」が鬱を発症し、自殺を何度も考えていた頃のこと。妻は夫が自殺しないように刃物を片付ける日々に加えて、夫の老父の介護もひきうけ疲れ果てている。
小学生の息子たちは父へ気を遣い、母へわがままを言うのをがまんする日々。
トラはもと野良猫で、ある日母猫といっしょに餌をもらいにきては、いつのまにか、この家にいついた子猫。

ある日妻の目を盗んで、刃物を手に死を考えていたとき、腹を空かせた子猫が餌をねだって足にからみつく、、ふと憑きものが落ちて自殺をおもいとどまった「私」。
そこから始まって、この家族にふりかかる人生の様々なできごと、(いいことも、悪いことも)「私」の鬱との戦いの15年間が静かな筆致で書かれる。
その生活の中にいつもトラがいた。
トラが2〜3日帰ってこないと家族全員で探しに出る。
大けがをしてねこんだトラが寝ている部屋を、かつてそこに寝たきりになっていた老父の時よりも頻回に家族みんなが訪ねる。
トラが行方不明になり、所在を確認できないまま、親戚の不幸であわただしく家を2〜3日空けた時、心配する妻にトラが仏壇の中にいる夢を見た、という「私」。帰ってみるとやはり玄関に迎えにくるトラはいない。ところが仏壇に線香をあげ、鈴(りん)をならすと、トラは何事もなかったかのように仏壇の脇からにゃあと出てくる。抱き上げて泣く妻に「泣くことはないよなあ。」と言いながらも自分も泣いている「私」。


(本文より)
・・・・・
トラは人間を感心させるような芸はまったくできなかったし、顔が大きくて鼻が低く、太っていて食べ方が下品だった。飼い主が食事をしているときも、好物の海苔が食卓に出ていると、味噌汁の椀を持つ妻の手に頭突きをくらわせてねだった。そのたびに味噌汁をこぼす妻はきつく叱るのだが、この種の行動は晩年になってもあらたまらなかった。それでも、トラはいつのまにか家族統合の要になっていたのだった。・・・・・

老父を見送り、やがて子供たちも親元を離れ独立し、いつのまにか「私」の鬱もいえた頃、「私」たち夫婦が50の坂を下り老境に入ると時を同じくして、トラも老いをみせてくる。外にも出入りできなくなる。段差を超えられなくなる。
そして、この15年間起こったこと、すべて見届けて15歳の天寿をまっとうする。




トラが逝った後、旅行から帰った夫婦。

(本文より)
・・・・日曜の夕方、すっかり暗くなってから家に着いて玄関を開けると、またトラを探してしまった。それは妻も同じだったらしく、二人そろって無言のままため息をついた。互いの息が奥から走り出てきた不在のトラにかかり、透明な輪郭を浮き上がらせた。二人とも敷物の上のトラの気配をよけて、上がりかまちの両端にザックを置いた。(完)

やはり、涙してしまうラストシーン。


ふとかたわらにうちの二匹の猫が丸まっているのを見た。
そうこうしているうちに"どうしたの?"という風にニャア〜と鳴く。
そう、うちの猫も特別なことはしない。
でも猫を見ていると、この子たちがうちに初めて来た10年前から、子供のことや家族にあったいろいろなことを思い出す。猫はそう思っていないかもしれないが、私はずっとこの子たちが私たち家族に心をそっとよせてきてくれたように思う。
すべては思い過ごしで、私の心の投影にすぎない、、といえばそれまでだが、この子たちがうちに来た必然性がどこかにあったはず、と信じている。

わたしたちもこの「私」たち夫婦と同じく、子供たちが巣立ってみれば、気がつけば老境に足を入れ、そして猫たちもまた。
若い頃はわたしが階段を上るとき、横をすりぬけ、私より先に2階へ上がって自慢げだったのが、だんだん遅くなってきた。
わたしを追い越せなくなる日がいつか来るのだな、と思う。
一緒に過ごせる時間は残りの方が少ないのだろう。だから、その残りを一緒に老いていこう。最後はちゃんと必ず看取るから。
そして遠くに離れた子供たちの心にも、私たちの心にもずっと生きていてくれますように。


そんなことを考えさせられた本でした。







2007年11月19日 (月)

「京都大不満」

Rns9iysl 題名だけ見ると、また京都人のイケズみたいなことを書いてるんかな?と、思いがちだけれど、いいえ、いいえ、どうして、京都の持つ日本の都市としての特殊性や、ひいては日本の国際都市としてのあり方まで提起している本でした。


作者はどういう方なのか、いまのところ他に著作がないみたいなのでわかりませんが、祇園で生まれ育ったイタリア系イギリス人の夫を持つ、御所西生まれ、祇園や上七軒などにすんでいた、筋金入りの京都人だそうです。




小学生の娘さんがいてはるそうで、年齢で言うと30〜40代くらいの方とおみうけします。

京都の衣食住や伝統行事、歴史的地理的背景など、京都で生まれ育った人しか書けないだろうなあという観点で書いておられます。
ただ、京都礼賛ではありません。京都という日本では特殊な都市を、冷静かつ時には批判的にみてはって、ではこれからこの町はどうあるべきなのか、ひいては日本が伝統文化の化石を抱いたままアジアの片隅の国にならないようにするには京都はどう役割を果たすべきか、など結構硬派な本です。

いろいろ目からウロコの内容がたくさんあるのですが、特にそうだなあと感心し、興味をもって読めたのは、京都の景観論争からはじまって、伝統文化は古いままそれにしがみついて守るだけでいいのか?というくだり。

例えば、明治中期に完成した琵琶湖疎水。
当時は景観破壊として槍玉にあがり、福沢諭吉らは猛反対の論戦を展開したという。確かに南禅寺にいまでこそ名所になってる水路閣のレンガ造りは、当時としては異様なものだったに違いない。
しかし!
東京に都が移って衰退した京都は琵琶湖疎水のおかげで経済復興をなしとげ、日本初の水力発電書が完成し、電力供給が可能になり、日本最初の市電が走った。琵琶湖疎水が建設されなかったら今日の観光京都の繁栄もなかっただろう。

つまり、伝統的景観に固執せず、新しいものの息吹を積極的に取り入れていた明治には京都には都市としての活気が存在した、、、ということかな。
これは一つの例で、筆者が言いたいことは次のくだりに要約されていると思う。

”京都がフィレンツェと同じ扱いにならないのは、(中略)歴史都市を次代に受け渡すための工夫をほとんどしてこなかったためで、守ろうとすると壊れるのが伝統美。都市デザインが満足に描けないのに、古いものを守るか守らないかの論争をしているから、都市景観が崩壊していくのを傍観しているしかない。”

”歴史都市を美しく保つには、経済活動においても先進的でなければならない。(中略)古いものにこだわる人はしばしば伝統に疎い。文化は普遍ではなく過去を振り切って進む生き物。伝統について保守的なままでいると伝統破壊者になっても気づかないものだ。”

今でこそ、渋い奈良のお寺も、できた当初は大陸系、きんきらの極彩色だったはずで、銀閣寺と比べて、金ぴかすぎる、と日本人には受けが悪い金閣寺も、建築当初はやはり、金キラで、そうでなければ華やかな北山文化の粋は語れない。、、、、なるほど、確かに。


「京都愛好家の幻想」というくだりでは、私には耳がいたいこともいっぱい書かれている。

”、、、町家がこれほど礼賛されるのも、現代の住宅建築が無粋で退屈で鑑賞に堪えないからだ。しかし町家のデザインに焦点を当てたとき、奉り過ぎではないかと思う。(中略)日本の伝統美はくすんで色彩に乏しい。その陰影の美こそ日本独特であって、そこに絶妙な調和と落ち着きの世界がある。それがわかるひとは深い芸術の理解の中にいる。そういわれれば返す言葉がない。そうして町家を眺めればなるほど美しい、これぞ後世に残すべき大切な文化財、、、(中略)京都に暮らす外国人にこうした錯覚の美の中に遊んでいる人をしばしば見る。”

(うっ!これって私のこと?)


”町家に着物で住んで、趣味の工芸品を作り、お茶やお花をたしなむ。弘法さんや天神さんで骨董品や古い家具を物色する。そんな絵に描いたような京都暮らし、、、は流行か。”

(う〜ん。将来の京都暮らしに私が描いているイメージそのままやんけ。
これは幻想なのねぇ、、汗)

(でもでも、)

”実用価値で町家をとらえるなら、手頃な家賃で案外なところに住める。昔ながらの暮らしも体験できて便利。、、(中略)お年寄りの多い町中では、おつきあいの幅が広がり、伝統をになっているさまざまな職業の人たちと知り合いになれる。生活の中にお茶やお花の世界が入り込んでいる。京都らしいあたたかな人情に触れることができる点で、これに優るものはない。”

(うん。そうだろそうだろ)

”町家が好きでたまらない人が京都人にいるとは思えないし、、、(中略)どうも景観論の引き合いに町家に焦点をあてるのが流行になっているらしい。京都暮らしのイメージだけが先行しているのだ。”

(はあ、京都人からみたらそんなもんですか、、、、)

いや、ますます京都に住むのはてごわいなあ、と思う反面、京都の景観論争がいかに将来へのはっきりしたビジョンがないままなされてると思うと、だめじゃん、京都人、と思ったり、伝統文化が濃密に集中している京都がだめなら日本全部が伝統文化国家として傾くし、しっかりがんばれ!と思ったり、、、。楽しめました。

京都大好き人間(特に京都以外に住んでいる人)は是非ご一読を!




2007年10月26日 (金)

パンズ・ラビリンス

スペイン語の聞き取りに、と見に行った映画ですが、そのストーリー、映像の暗い美しさ、主人公の12歳のイバナ・バッケロのクラシックなかわいさに、良い作品を見た、という実感。


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題名は「パン(牧神)の迷宮」(スペイン語でEl Laberinto del Fauno)。いかにもお子様向けファンタジー?って感じですが、さにあらず。12歳以下お断りの映画なのだ。
ハリウッドやディズニー映画ではありえないストーリーと、かなりエグい映像のダークファンタジーとでもいいますか。
(お子様にはおすすめしません。見たら夜泣きか、おねしょしちゃいます。きっと)

監督はメキシコ系のデル・トロ。で、全編スペイン語。だからアメリカでの公開は英語の字幕というのに、アカデミー賞3部門受賞とは、アメリカにおけるヒスパニックの勢い、侮るべからず!という感じですね。


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舞台は内戦後、フランコ将軍支配下のスペイン。
スペイン内戦(1936~1939)の悲惨さは映画“蝶の舌”などである程度知識はありましたが、その後のファシスト、フランコ政権下のレジスタンスについては知りませんでした。

このフランコ政権の象徴とでもいうべき主人公オフェリアの継父の大尉のモンスターぶりが怖いんです。(外見ではなくその残虐非道な性格が)最後はたおしてもたおしても追いかけてくるターミネーター状態。


主人公は父親をなくした童話好きの少女オフェリア。
ただ自分の息子が欲しい、という道具のためだけに美しいオフェリアの母を妻とし、その体も心もいたわろうとしない、継父の大尉。
彼は反フランコ・レジスタンスや、貧しいが故に夜の森で兎を狩っていた農夫などを非人間的、サディスティックに殺します。
そして自分の血を引く息子が産まれることのみを待ち望んでいます。
しかし体の弱い妊娠中の母は長旅の疲れもあって日に日に弱っていきます。
悲惨な現実の中でオフェリアは森で出会った妖精(これがまたかわいくない。)に導かれ、パン(牧神。これまた信じていいのか悪いのかわからないくらい、怪しく、不気味)のいる迷宮へ。

パンは、オフェリアは実は地下の魔法の国の姫、モアナで、地上に出たため記憶を失っているのだ、と告げます。
そして父母の待つ王宮に帰るには3つの試練をやり遂げることが必要と言い、”道を標す本”をわたします。

ここから、彼女のファンタジー世界での試練と、過酷な現実が平行して進行します。

ファンタジーの世界では花の木を枯らす巨大な粘液たっぷり、という感じの蛙や、掌に目がある子供を喰うペイルマンという怪物(超怖い!けど、どこかユーモラス)、どこでもドアみたいな性能を持つ?チョークなど、おどろおどろしいけれど、でも映像的にとても美しい。暗くて美しい。

一方現実世界では、母親の死や、唯一心を慰めてくれるメイドのメルセデスや、レジスタンスにひそかに味方する医師に対して残虐さむきだしの大尉。森の中でのレジスタンス部隊と大尉の部隊の血で血を洗う衝突など、次々と人が殺されてゆく救いようのない日々が続きます。

そして最後にファンタジーと現実がクロスする時、オフェリアは最後の試練を成し遂げるために、大尉と対峙することになります。

母を亡くして、その後残された産まれたばかりの弟を抱きしめ、最後の試練でオフェリアが下した決断は、、、
これは見てのお楽しみ。

決してハリウッド映画みたいにハッピーハッピーには終わりません。でも、救いはあります。
彼女の下した決断こそが、この暗い暗い映画の唯一の救いだと思います。

最後に、残虐非道人間の大尉のために、ひとつ弁明しておくと、彼は父親から遺された、自分がいつ死ぬかを示す懐中時計を持っています。
常にこの時計をチェックし、実は刻々と減っていく残された時間の恐怖と必死に葛藤していたのかもしれません。これが彼を単なるモンスターではなく、苦悩する人間として存在に厚みを持たせているのだろうと思います。
(それに裂けた口を自分で縫っちゃうなんて、どこか滑稽だし。)

マイナーな映画館でしかやってませんが、10編のハリウッド的な映画より価値があります。(別にハリウッドが嫌いな訳ではありませんが、、、、)

それにしても、オフェリアを演じた12歳のイバナ・バッケロおそるべし。
無垢な少女でありながら、特に巨大蛙に石をのませようと、虫で釣るときの表情が、少女とも思えないくらい色っぽい。
う〜ん、男を誘惑する女の顔をちらっと見せるんですね。
あと何年かしたら、ペネロペ・クルスのような女優になるかもしれません。lovely

2007年10月23日 (火)

「おひとりさまの老後」

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筆者の上野千鶴子さんは、現在東大大学院の教授で、マルクス主義フェミニズム(ようわかりません、、、)に基づく社会学、女性学など専攻の学者さんです。
(時には物議をかもす)断定的なものいいが小気味よいのです。私の母校の先輩にあたるのですが、当時の彼女を知る人からは”学生時代から強烈やった。”そうです。
そうでなくても女子学生の極端に少なかった時代、たいそう目立っていたことでしょう。

いわゆるフェミニストといわれる方々の考え方には、もうひとつ賛同しかねるので、ほとんどちゃんと彼女の著書を読んだことはありません。
なのに、タイトルに惹かれてこの本、買ってみました。



子供たちが家を出て行って、ふと気づくと、あれだけ時間にしばられたくない、と思っていたのに、いざなってみると何をしていいのかわからず、「空の巣症候群」とはこういうものか、、と、ちょっぴり鬱に。

それにさらに気づくと、なんだか永遠にあると錯覚していた残された人生の時間はそれほど長くない。
元気でいられる余生としては20年もあれば御の字かも。

ならば老いに向かう日々はすでに始まっているのだ!

誰の言葉か忘れたけれど、老いの日々を冬とすれば、その冬をいかに充実してすごせるかは秋の日々である壮年期にいかに多くの収穫を得るか、で決まる、、、と。

これは興味を示しながらも未読の五木寛之さんの50代=「林住期」というのと同じような考え方だと思う。

で、この「(主に女の)おひとりさまの老後」

結婚しててもしてなくても、いずれは一人になる確率は圧倒的に女の方が多いのだ。というところから始まって、お一人様になってからの老後になるまでに、何をしておくべきか、何はしてはいけないか、、、を住居、介護、お金、葬式にいたるまでの心構えを、小気味よく、バシバシこうあるべし!と教えてくれます。
そしてその準備はすでに壮年期からしておかなければならないことも。

例えば介護について。

要介護になって中途同居したあげく介護の負担に耐えかねた子供たちからどこかのケア付き施設に入居することをせまられるくらいなら、はじめから住み慣れた我が家で最後まで暮らすべし。
そのための地域の介護資源についてよく調べておく必要がある。
そして介護されることを受け入れる勇気を持とう。(この場合の介護者は介護のプロである他人)。ただし介護される側にもノウハウがいる。また、その介護を受けるための費用をどう計画して準備するか。(年金はあてにできるかどうか今は不明だし、、)


介護に関しては、まだ自分自身の問題よりも、親の介護のほうがまだ問題なのですが、自分がされる側に回ったときの準備も同時に考え始めても早くはないのでしょう。
ただ、年老いた親を看るのは子供のツトメ、と思っている親の年代と、子供はあてにしない、と決めている私たちの世代ではちょっと考え方にギャップがあります。そこをどう、うめていくか、、、。

そして年を取ってから、だれとどうつきあうか。
壮年期以降の他人との(特に仕事関係以外の)コミュニケーション、ネットワーク作りは大事だと私も思うのです。

上野さん曰く、
高齢者の一人暮らしを「おさみしいでしょう」はよけいなお世話。
一人暮らしの基本はひとりでいることに耐性があること。そして一人暮らしの達人はひとりでいることの快楽だけでなく、不安も知っているから、ほかのひととつながることも達人だ。
家族や仕事仲間はいつかはいなくなる。そのあとに残るのは友人たち。ただし、友人は作るのに努力もいるし、メンテナンスもいる。
年をとるとは自分の弱さを認めることだ。つらい、悲しい、困った、、、そんなときにいつでも泣き言を聞いてくれ、助けてくれる人を調達し、かつメンテナンスしておくこと、友人とはそのためのものだ。

そう、そういう友人をつくるのが、まずこれからの10年間にやっておくべきことだと思う。
職場や子供つながりの友人を卒業し、老年期に向かってのつきあいをいかに作っていくか、、、今の自分にとっていちばんの課題がこれ。かなり労力と根気がいると思う。仕事にかまけて、あるいはかこつけて、地域とのつながりをおざなりにしてきたツケですね。

50代以上の(40代でも早すぎマセン)方にはおすすめの1冊です。私の親世代の女性にはちょっと受け入れられないだろうなと思うところや、私自身も、上野さんみたいにドライにはわりきれないわ!と思うところもありますが、こういうふうにキッパリ!と書かれると、高齢になる恐怖がすこし軽くなり、勇気がわいてきました。





2007年9月 6日 (木)

Fresa y Chocolate〜苺とチョコレート

毎度、懲りずにまたキューバネタですみません。

キューバで撮りまくった写真のメモリを失って、悔しい思いをしたので、忘れないうちにハバナの景色を確認しておこうと、単にハバナが舞台というだけで見た映画です。

内容は全然予備知識無かったのですが、見て”よかった”と、ほろりとさせる良い映画でした。
(ちなみに何年か前、ベルリン映画祭で特別賞をもらっていたらしい)

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”苺とチョコレート”
タイトルは、キューバでは苺アイスクリームはゲイ=同性愛者が食べるもの、というところからきています。


舞台は80年代のハバナ、まだベルリンの壁が落ちる前。



恋人に裏切られ、おちこむ生真面目な革命・共産主義信奉者のダビド。カフェテリアで、彼の前にいきなり現れ、苺のアイスを食べてみせるディエゴ。彼は芸術、自由を愛するゲイで、以前からダビドに思いを寄せていた。
いきなり、一方的に思われ、さらにゲイ=反革命分子と偏見をもっているダビドは彼を毛嫌いして避けるが、共産主義青年同盟の友人から、反革命分子だから証拠をつかむため、さぐれ、と言われる。

再びディエゴに接近するダビド。
喜ぶディエゴだが、彼にダビドは条件をだす。
1)人前では話しかけないこと。
2)体に必要以上ふれないこと。

相手を探る目的で近づいたダビドだったが、次第にディエゴの芸術、文学、政治、音楽への深い知識と造詣、芸術を妥協無く愛する熱意、そして温かい人柄に触れ、偏見をすてていく。
ディエゴもまた、やけ酒を飲んで酔いつぶれるダビドに触れたい気持ちをぐっとこらえ、約束を守る。
町の本屋でダビドを見かけたときも、声をかけたい気持ちを押さえ込み、悲しい気持ちを本を握りしめることでこらえる。

そして二人が、かけがえのない友となった時、ディエゴは芸術を愛するがゆえの政府への反抗を理由に、国を追われメキシコに亡命することに。

出国する前、ハバナの美しい景色を胸に刻み付けるディエゴ。
”けれど、ほんとは抱いて欲しかった。”
そういう彼をダビドは自ら抱きしめ、二人は最後の抱擁をかわした。

以上あらすじ。

とにかく、ハバナの風景が美しい。古い、いやはっきり言って、ぼろだけど格調の高い建物が作り出す景色が美しい。海が美しい。
かえすがえすも写真のメモリが〜〜〜!angry

ディエゴの部屋として、旅行では見ることの出来なかった、その古い家の内部が見られたのもうれしかった。かんぬき一つでさえ、重厚な昔の造りで、アンティークな窓、鎧戸、ベランダも見所。

ディエゴが最後に景色を胸に刻んでおきたい、と言った気持ちがよくわかる。彼もこの国を、キューバの芸術を、愛しているのに、その国から追われるのはどんな気持ちだろう。切ない。

これは80年代くらいの話なので、まだキューバでは共産主義の熱心な信奉者も多かったし、政府の思想統制はもっときびしかったことと思う。
ところがこの映画みたいに体勢をちょっぴり皮肉ってみせる映画を作ることが許可されるのだから(キューバ、メキシコ、スペイン共同制作)、時代は変わって来ている、と言うべきか。
ポスト・カストロのキューバは要チェックだな。

最初ゲイを恥ずべきことと、毛嫌いしていたダビドが、最後の方でディエゴに言った冗談がとても気に入ってる。
 
ディエゴ:君は美しい。文学の才能もある。唯一つの欠点は
     ゲイでないことだ。
ダビド:完璧な人間はいないさ。


smile私はここで笑えたんだけれど、、、。
ダビドが、ゲイは恥ずべき性癖でもなく、ただその人の属性の一つにすぎない、と悟ったことがうかがえる一言です。

ただ、ダビドを演じた俳優さんがもう一つ、美声年といえなくて、、、。ヨーロッパ人はああいうちょっとエキゾチックな感じにひかれるのかな。
あれがガエル=ガルシア=ベルナルくらいの超美形だともっと感情移入できたんだが。

ディエゴの俳優さんは知らない人でしたが、澄んだ瞳がとても美しく、魅力的なディエゴを演じています。
ダビドに対する思いを自制するストイックなところ、芸術に対する政府の無理解に激高する所、最後に愛する国に追われる悲しみを切なく、切なく演じています。
彼のシンボルはヒマワリ(スペイン語でgirasol・ヒラソル)の花。映画の中でも効果的に使われています。


地味と言えば地味な映画ですが、CGてんこもりのハリウッド映画に飽きたあなたにおすすめ。
ハバナの町の美しさなら、この映画と”ブエナ=ビスタ=ソシアルクラブ”→http://blog.kansai.com/cheruprifre/133をおすすめ。堪能できます。


2007年8月10日 (金)

キューバネタその3:el CHE~チェ・ゲバラ 伝説になった英雄

Ei9xcopf はい、このおっさんは誰でしょう?
最近でもこの顔のついたTシャツ着てる若者よく見るけれど。そう、昨日ご紹介したcafe calienteの壁にかかってたポスターのチェ=ゲバラですよ。


彼が銃殺されたというニュースは当時(1967)中学生だった私も微かに覚えてる。私の年代の人にはかっこいいヒーローとして記憶されているのでは?

しかしっ!私の廻りの若いもんに聞くと、
”えっ?げまら?げばら?何ですか、それ?”
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これはジェネレーションギャップ?それとも私の廻りは世界史いいかげんに勉強した奴ばっかり?

チェ・ゲバラを知らんのか?おまえら!

ジョン=レノンをして”世界一かっこいい男”と言わしめたゲバラを!
って、そのうちジョン=レノンって誰?っていわれそう。処置なし。


Hvsatrgb この映画、
キューバ革命をカストロとともに成功させた革命家、ゲリラの親玉、政治家 etcの現実の映像や、当時の彼の廻りにいた関係者のインタビューからなるドキュメンタリーです。



う〜ん。カストロって誰?キューバ革命ってなに?って聞かないでね。
詳しくはWikipediaでも読んでみて。


彼に興味を持ったのは、だいすきなメキシコの俳優、ガエル=ガルシア=ベルナル(guapo=スペイン語で超男前)が、若き日のゲバラを演じたこの映画を見てから。


Qshlb6xa モーターサイクルダイアリーズ


アルゼンチンの中流家庭に生まれ当時22歳の喘息持ちの医学生だったエルネスト(ゲバラの本名)が友人と2人、おんぼろバイクに乗って南アメリカ12000kmを縦断。

南米社会の現実を知り、のちに革命家となる彼に強い影響を与えたと言われる若き日のエピソード。
まあ、卒業を前にしてこういう無茶な旅を企画する段階からもう普通の人ではなかったわけね。
おとなしく医者になって中流の平凡な人生はどっちにしても歩んでなかっただろうな。

その後、つい最近、NHKの番組でゲバラの最後についてのドキュメンタリーを見て、さらに興味が。

彼の最期の状況は長い間ボリビア政府に隠蔽されていて、銃殺されたとか、銃撃戦で死んだとか憶測が飛び交っていたのです。彼を最期に世話した当時若かった小学校の女教師のインタビューが印象的でした。


Qbi7udno 収容された小学校の校舎の中で銃殺された彼は、それでも最期まで生き延びることを信じ、年若い教師に理想をやさしく語っていたそうです。


う〜ん。それにしてもGUAPO!

そしてこの映画を見て、当時よくわからなかったキューバ革命やゲバラの果たした役割、どうしてカストロと別れ、キューバを去ったのかなどがやっと理解できました。

わたしも若いもんのことはいえませんな。かっこいいというだけで、たいしてよく知ってなかったんだなあ。


Uvcs4jdn 手を縛られた彼を前に、銃を撃てないでいるボリビア人兵士に”構えよ!よく狙え!”と言ったという壮絶な最期。彼の死体はヘリで運ばれ、民衆のさらし者になった。(この死体の写真は有名)享年39歳。
”ボリビア人を殺した悪者の顔を見てやる”と息巻いて来たある婦人が、死体を見るなり、”おお、なんということ!彼はイエス=キリストにそっくりだ。”とかえって泪をながしたとも。


数奇な運命をたどった最期のヒーローらしいヒーローではないかと思う。
冷酷な面もありながら、基本は貧しい南米の人々へのあたたかいヒューマニズム、高い理想、冷徹な戦略、果断な行動力を持ち、おまけに男前!とくれば惚れるわ、そりゃ。


その後ボリビア政府により、その埋葬地が聖地になるのをおそれ、30年来どこにかれの遺体が埋められているのか謎であったが、1997年、遺骨のある場所判明。30年ぶりにキューバに帰還。いまは静かにサンタ=クララの町に眠っていると言う。

一人でヒーローになり得る男、この先もういないだろうなあ。世界情勢が複雑になりすぎて、、、。
そして、危篤とも伝えられるカストロ将軍、確かに一つの時代が終わろうとしている。キューバはこれからどこへいくのか?アメリカみたいにはならないで欲しい、、と思うのだけれど、、、、。


2007年8月 7日 (火)

BUENA VISTA SOCIAL CLUB

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2000年にアカデミー賞候補になったちょっと古い映画ですが、(ビム・ベンダース監督)最近やっと見ることができ、映画の中の実在のキューバの老ミュージシャンたちのあまりのかっこよさに、感動。


キューバ音楽にそれほど興味はなかったけれど、これを見た後、しばらくオープニングの”Chan Chan”という曲が頭の中を巡ってました。
たまに聞き取れるフレーズがあるので、よけいにうれしい。(スペイン語を習っててよかった!と初めて思った。)

音楽もさることながら、キューバの、社会主義の国として、またアメリカから経済封鎖をうけている国としての特殊な社会のあり方もかいまみえて、興味深い。

30年代から60年代、実際にハバナにあったブエナビスタソシアルクラブという音楽クラブで活躍し、キューバの社会主義化、経済の変化などから忘れられた、名プレーヤーたちを、アメリカのギタリスト、ライ・クーダーがキューバを訪れ、探し出し、レコーディング。

これが空前のヒットとなったため、再びキューバを訪れ、同じミュージシャンたちを集め、アムステルダムでの公演。
その大成功をひっさげ、ついに!ニューヨークのカーネギーホールで公演。
その記録に、各ミュージシャンのインタビューをはさんだ構成のドキュメンタリーです。

ギタリストは92歳、ピアニストも82歳とみなそれぞれ超高齢。
”いそがないと、貴重なキューバ音楽の最も輝いていたときの音が失われてしまう。”とこれを企画した、とライ・クーダ。
(実際この映画の後、92歳のコンパイ・セグンドは大往生してます。)

このじいちゃんたち、またいい顔して演奏してるんです。
老化による音の衰えなんてみじんも感じさせず、とにかくかっこいい。

92歳ギタリストじいちゃん、鳥打ち帽に葉巻でダンディー。”子供は5人いるけど、いま6人目を作ってる最中さ。”と、茶目っ気もたっぷり。
町の人に元気の秘訣のニンニクジュースの作り方を伝授してたり、まあ、お元気。

キューバのナットキングコールといわれたボーカリストはもう音楽はやらない、歌はやめたと長年、市井にまぎれていたのだが、ひとたびマイクの前にたつとじ〜んと胸に来る艶っぽい声。
”物欲に支配されるとろくなことがない。”
と、アメリカへの批判もチクリ。

ピアニストは貧しいため、家にピアノがなく、公民館のようなところのピアノをほそぼそと弾いて、生計は靴磨きでたてていたという。

ほんとにこんなすばらしいミュージシャンが時代の流れとともに埋もれてしまったっきり、でなくてほんとによかった!
ライ・クーダ、偉い!

ハバナの町並みは世界遺産になるだけあって、スペインの領地であった頃の雰囲気をたっぷり残している。
けれど、人々は貧しい。
50年代のアメリカのクラシックカーが走り回っているのも、マニアには垂涎の風景だが、ただ経済封鎖のため、新しい車が買えないだけのこと。
部品も入ってこないので、壊れても修理できない。
電気製品は政府の許可がないと新しく買えない。だから古〜い冷蔵庫があったりなんかする。

でもそれはアメリカの洗練された都市に住む人に比べて、不幸なことだろうか、、、?

ただ、先の”物欲云々”のボーカリストが、カーネギーホール公演のため、訪れたニューヨークの夜の街角に立ち、
“美しい、美しい町だ”とつぶやいたのが印象的。
アメリカを批判しつつも、物質的に豊かなニューヨークの魅力にはあらがえない、、、。それも真実であろう。

カーネギーホールでの堂々たる公演の終盤、キューバの旗を高々とかかげたじいちゃん達+ばあちゃん1名、なんと誇らしげで輝いていたことか、、。
そしてエンドロールにかぶる、 オープニングでやった"Chan Chan"の曲。

ひっそり日のあたらないところにいても、音楽を誇りとし背筋をのばして生きてきた老ミュージシャン達、かっこいいわけだわな。

自分の人生にひとつでも誇れるものがあるか、問い直さざるを得ない。



2007年7月 7日 (土)

”夕凪の街 桜の国”

Ndqvckwm 久間元防衛大臣が原爆に対する不謹慎発言で辞職したニュースもまだ記憶に新しいこの時期、このコミックを書店で見つけました。
4年前の作品ですが、近いうち映画化(麻生久美子、田中麗奈主演らしい)され公開されるのを機に書店に並んだようです。でも少し前、雑誌の書評コーナーで見て、原爆症というテーマの重さと、どこかほのぼのした絵にギャップを感じて興味をもっていました。

寝る前にさわりだけ読んで寝よう、と思っていたのに、読み出すと一気に最後まで読ませる作品でした。



話は原爆投下後十年たった広島を舞台にした前半と、現代が舞台の後半がやがて一つの物語になって行く、、、という感じでしょうか?

皆実(みなみ)は23歳で、広島で会社つとめをし、母親と一緒に戦後急拵えされたとおぼしき雨漏りのするバラックにすんでいます。原爆投下のあの日、父と妹はかえらず、助かった姉も2ヶ月後に原爆症で黒い血を吐いて死んでゆきました。

靴の底がへるのがもったいないので、家の近くにくると靴を脱いで裸足で歩き、友人のお弁当の竹の皮をもらっては草履を編もうとするような、貧しい生活ですが、彼女はユーモアにあふれた明るくたくましい女性です。
けれど、心を寄せてくれる男性の気持ちを素直に受け止められないのは、自分が”ヒバクシャ(被爆者)”で、生き残ってしまったという何か、後ろめたい思いがあるからでした。

やがて原爆症が少しずつ彼女の体を蝕んでいきます。

    ”十年経ったけど
       原爆を落とした人はわたしを見て
        ’やった!また一人殺せた’
          とちゃんと思うてくれとる?”

その死を暗示する終わり方でしたが、最後に一行、
  
   ”このお話は終わりません。
      何度夕凪が終わっても おわっていません”

そして、現代の後半に引き継がれ、主人公はやはり若い女性、七波(ななみ)。
父親は疎開していて被爆を免れた皆実の弟。そして母親は赤ちゃんの時被爆し、38歳で原爆症でなくなっています。
彼女と弟は被爆2世で、弟はそれを理由に恋人の両親に結婚を反対されています。”ヒバクシャ”の戦後はまだ終わっていないのです。

そして、姉の皆実ゆかりの人をたずねる巡礼の旅に広島へ行く父と、こっそりあとをつける七波。


原爆の悲惨な場面はあまり出てきません。
それでもそれがもたらした恐怖や絶望はこんな普通の人たちの普通の日常を今なお、さいなむ。


出かける夫を送り出したあと、干した布団を丁寧にたたく。
ごくごく平凡な日常。
ほのぼのとしたタッチの人物、どこかとぼけた広島弁。
それが故によけいに、これを一瞬で破壊し、いまなお原爆症の恐怖を日常生活の後ろに忍び込ませる、原爆がどれほど罪深い物なのか。

最後に七波が“この両親を選んで生まれて来た。”
と、皆実の精神的生まれ変わりを暗示してこの話は終わります。


作者のこうの史代さん(もちろん戦後生まれのお若い方です)は、広島、長崎以外の人は本当に原爆の惨禍を知らないこと、知ろうしないのではなく、知る機会がないことに気づき、この作品を描いたそうです。

声高な戦争反対、原爆反対はありません。
でも静かに心に響く作品です。
一読お勧めします。
(映画はどうか知りませんが、、。映画化されるとテーマがずれてくる気がして、、、、)




2007年5月22日 (火)

イノセントボイス/12歳の戦場

見てて非常につらい映画です。(昨年公開)
でもこれは実話をもとに作られた映画です。


Tlflhzd0 エルサルバドルの80年代の内戦を時代背景として、政府軍とゲリラとの戦いの最前線の村で母親と姉、小さい弟と生きるチャバの数ヶ月を描いた映画。


日本人でエルサルバドルの内戦について知ってる人はほんの少数だと思います。南米のどこかだ、と思うけど、どこにあるのか正確にはしらない人がほとんどでしょう。私もそうでした。

1980年代、この国がキューバの影響で共産化することをおそれたアメリカは、政府軍に軍事支援をします。このアメリカ式訓練を受け、軍事情報を提供された政府軍は<死の部隊>とよばれ、ゲリラと銃撃戦をするだけでなく、村を襲い、多くは老人、女、子供であった村人を虐殺、家を焼き討ちし、この内戦で人口500万の国で、7万人が死亡、10万人が難民になったといいます。
(アメリカはベトナムやイラクばかりがクローズアップされますが、南米でも結構悪逆です。)

1980年におこったリオスンプルの虐殺とよばれる事件では、政府軍は子供を体を切り刻んで殺し、女たちは強姦されて殺され、川に打ち捨てられた死体は数えられるだけで600人をこえたそうです。
(日本でどっぷりと平和につかっていた私は、こんな虐殺と過酷な弾圧のことを知ろうともしなかった。うなだれるばかりです。)


政府軍は男の子が12歳になると有無を言わせず、兵士にするため、学校から村から文字通り狩って行きます。

主人公のチャバは11歳。ある日学校に銃を持った軍人がやってきて、何人かの友達の名前を読み上げ、前に並ばせ、そのままトラックに乗せて連れ去ります。親への別れのあいさつもなしに、、、。

連れ去られる恐怖で小便をもらした、友達は、後日、軍に洗脳、教育され、ためらいもなく機関銃をぶっぱなす、いっぱしの少年兵となってチャバたちの前に現れます。(この子もいずれ銃撃戦の中で、2度と親兄弟に再会することもなく殺される運命でしょう。)

夜は夜でいきなりの銃撃戦で家の中にも銃弾がとびかい、ベッドの下で身をちぢめる日々。
民族音楽は禁止され、街角をぶらつく兵士の前では息をころしてあるかなければなりません。

それでも、子供たちのエネルギーは輝いて、友達とのたわいない遊び、初恋の女の子とのキス、大好きなバスの仕事の手伝い、母親との親子の絆、小さい弟の父親がわりなど、チャバの子供らしい日々がつづられていきます。
それが最後によけいに悲しいんだけれど、、、。

12歳の誕生日に、ケーキの12本のろうそくから1本抜く母親の気持ち。口ではうるさいけれど、本当に子供たちを愛し、守ろうとする、若い母親。

明日政府軍が男の子を狩りにくる、との情報を得た子供たちは、軍が来たとき、一斉に家の屋根の上にぺったり横になって隠れます。あっちの家でもこっちの家でも、男の子たちが屋根に横たわっています。軍は子供たちを見つけられず、悪態をつきながらひきあげます。
一見屋根にねころぶ男の子たちはのどかで、ユーモラスな感じさえするところがまた、哀しい。

ゲリラ軍に参加しようとしたチャバたち4人の男の子は、とらえられ、雨の中を川まで、殺されるために頭に手を組んで歩かされます。(上の写真の場面。胸が痛むシーンです。)

あとは、ネタバレになるので言いませんが、ラストは、ハリウッド的というか、希望が少しもてます。

エルサルバドルとは、スペイン語で<救世主>という意味です。なんて皮肉でしょうか、、、。現在は内戦状態はなくなりましたが、南米ではいまでも内戦一触即発の国はまだまだあります。

では、平和にまもられ、貧困もなく、豊かな日本の子供たちは、チャバたちと比べて、幸せでしょうか?
即、Yes、と答えられないのが寂しいです。

生きる目的が見いだせず、自分勝手な理由で人を傷つけたり、はては殺したり。
外で友達と遊ばず、ゲームに没頭したり、黙々と時間刻みで塾通いをしたり、親は親で子供を虐待したり、逆に子供に殺されたり、、。

戦火の中にあっても、目を輝かせることを失わず、親子は固い絆で結ばれている。
たとえ死と隣り合わせでも、チャバたちは、生きている!という実感をより強く感じている点において、精神的により幸せでは、、、?

スペイン語の勉強のため、と軽い気持ちで見た映画にちょっと圧倒されました。
多くの日本人に見てもらいたいと思います。
よく知られていない南米の国々、また、人権が守られていない国も多い南米について、そこの子供たちについて、思いをいたしてほしい、と思いました。






2007年5月14日 (月)

森見登美彦「きつねのはなし」/京都が舞台の奇譚集

この作家は知りませんでした。
「京の骨董店を舞台に現代の百物語の幕が開く。」
というコピーにひかれて手に取ってみました。


Uxrqmov6 きつねのはなし


ぱらぱらとページをめくると、吉田神社の節分祭、とか、一乗寺の古道具屋、とか、北白川の下宿とか、鷺の森神社、叡山電鉄、etc.etc...私の昔の生活圏で、よ〜く知ってる地名がいっぱい!
というのに感激して買ってみました。

作者は京大農学部在学中に日本ファンタジーノベル大賞を受賞して作家活動に入ったらしい。
どうりで、京大周辺、京大生の下宿が集中してるあたりの地理にくわしいはずだ。
年表からみるとまだ20代の若もんですね。

で、この作品だけれど、いうなれば京都の(いや、左京区限定だけれど)パラレルワールドにおこるあやかし奇譚とでもいうべきかな。
この周辺をよく知ってる人にはたまらない。
例えば、荒神口(近衛通と川端通りの交差点)にかかる荒神橋はよく通った橋で、なんの変哲もない橋だけれど、この話の中ではいうならば、この世とあやかしが跋扈するかくりょ(幽界)との結界になってる。名前も実際の荒神橋を知らなかったら、なんとなく”荒神”って、怪しい感じがしますものね〜。

薄暗いほこりくさい骨董屋が狂言回しの舞台となって、琵琶湖疎水掘削の歴史のなかで知らぬ間に封じ込めてしまっていた水神の話や、いつもは人気のない吉田神社が1年に1度だけ節分のときに、夜店連なる幻想的な別世界になるなかでおこる不思議な話など。

京都はほんとに小さな通りや場所に特別な名前がついているので、京都を知らない人でも、地図を頼りに読んでいくと面白いと思う。

この作者はこういう話が得意なのかなと、思っていたけれど、最近は”夜は短し歩けよ乙女”という恋愛小説もお書きだとか、、。ロマンスものはあまり好きではないけれど、これも京都が舞台らしいから、頭の中の地図をひろげて読んでみようかな。



2007年4月30日 (月)

麻生圭子さんの町家暮らしエッセイ

京町家の造形やそこでの暮らしに惹かれる私としては、まえからず〜っと気にはなってたけれど、スル〜してた麻生圭子さんのエッセイを、ついに3冊まとめて大人買いして読みました。
   「東京育ちの京都案内」
   「京都で町家に出会った。」
   「京町家暮らしの四季〜極楽のあまり風」


Ffwo047f (2冊しか写ってませんけど、、。)



東京から一時の仮住まいのつもりで京都にきて、京都の魅力に取り付かれて、一軒の古い町家を借りて自分たちで補修、掃除をして住むことになった顛末を、四季折々の京都の行事や風景とともにつづったもの。

読んでいて町家独特の光と陰が織りなす空間が目に浮かび、通り庭を通り抜けるかすかな風も感じられるような気がしました。
清少納言の”枕草子”や谷崎潤一郎の”細雪”の世界だな、と思いました。季節折々を、その季節感を増幅してくれるツールでもある町家で日々なにげないことを楽しむ。

いいなあ。そんな生活してみたい。昔の貴族階級のように、生(な)さず、紡がず、ただ季節を愛でる生活。、、、無理!
(働かないと食べていけないのよ。季節の風物ではおなかいっぱいにならないのよ。労働者階級のつらさ、、、。)
もちろん麻生さんも家で執筆というけっこうきつい労働をしてはるわけで、あそんではるわけではありません。

本人も言っておられますが、あくまで”京都に住んでる観光客”というスタンスがかえってわかりやすい。
実際生まれも育ちも京都という人は、あまりに身近で当たり前すぎてなんとも思わないことが、よそからみるとすごく新鮮ですてきにみえること!
たとえば、茶道が好きで日本に来た外人さんの方が、そこらの日本人より、もっと茶道に造詣が深かったりするのとおなじかも。
麻生さんは京都人以上に京都を愛してる感じがよくわかります。

それにしても徹底した昔暮らしで、夏は冷房なし、冷蔵庫なし、網戸もなく、蚊帳をつって蚊とりをたく。
比叡おろしのふく冬もアラジンストーブと火鉢のみ。台所はたたきの床でじんとぎ(人造石のとぎだし。昭和初期の頃の流し)の流し。
お掃除は1日2回シュロ箒に徹底した雑巾がけ。
ここまでくると立派!

この町家を借りることになった当初から、自分たちで板に漆を塗って床材にしたり、何回ふいても雑巾がすぐ黒くなるほどのガラス戸の桟を何十回と拭いたり、ネズミの死骸やクモの巣のかたづけ、、、。町家への思い入れははんぱじゃありません。


冬起きたら布団の中で吐く息が白いとか、着替えが氷のように冷たいとか、特に寒さに弱い私は、いくら町家が好きでもそこまでは、、、、無理!coldsweats02不可能!shock

これらの本を読んだ後、彼女のブログをよくのぞきます。
本に書かれた町家は契約期間が過ぎて、また新たに六波羅蜜寺近くのすごく大きい茶室付きの町家をかりられたようですが、この町家の季節のしつらいや庭、かわいいheart猫2匹の写真付きでほぼ毎日アップされてて、結構楽しみにのぞいています。

表千家茶道を習い始めてから、またさらに京文化、日本文化への思い入れを強くされたとか、、。
彼女の場合は有名人ですから、茶道の先生も表さんの重鎮中の重鎮で、お弟子さんも有名料亭のおかみや、お嬢様だったり、いろいろなイベントで知り合ったりつきあったりする方々もみんなその道のえらいさんだったりするんですけれどね。こればっかりは一般人はまねしようがありません。

で、今は昔風に町家に住みたいという思いと、やっぱり近代的な設備(せめて暖房は〜〜)は是非!と思う気持ちでゆれてます。そろそろ来年あたり、建築設計士さがさないといけないし、コンセプトをかためとかなきゃいけないんだが、、、。


(追記)麻生さんのブログの猫、ロシアンブルーのロッタちゃんと、その息子で雉トラのトビ君。めちゃくちゃかわいいです。heart



2007年4月 6日 (金)

”ナチョ=リブレ” 覆面の神様

ハリウッド、ハリウッドした映画は最近もうウンザリ。大掛かりなシーンもCGばっかりで面白みがない。話の内容も単純で、ヒーロー、ヒロインは現実離れしてタフだし、なんでもかんでもアメリカアズナンバーワン!だし、、。

最近見るのは、ミニシアター系、インデペンデント映画が中心。
でもって、こういう映画は言語が英語ばかりではないので、おもしろい。フランス語あり、スウェーデン語あり、アラブ語あり、私が勉強してるスペイン語ありで。
なかでもスペイン語の映画はスペイン語教室でDVDを無料で貸し出してくれるのでたくさん見た。中の知ってる単語が(すごくちょっとだが)聞き取れるととてもうれしいもんだな〜。

でも、きょうご紹介の映画はめずらしくハリウッド物なんだが、メキシコ人監督のメキシコが舞台の映画。
"ナチョ=リブレ”覆面の神様。


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主人公ナチョ(イグナシオの愛称)を演じるのはジャック=ブラック。”スクール=オブ=ロック”でブレイクして、現在公開中の”ホリデイ”(ジュード=ロウやキャメロン=ディアスが出てる)にも出てる役者さん。
これがまた芸達者なんだわ。コミカルな役なんだけれど、ドタバタになる一歩手前で控えるという高等な技で、品のあるコメディーになってますね。こういうの好き。

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映画は一応ベースは英語だけれど、時々スペイン語がはさまるし、主人公以外はメキシコの俳優さんですごいスペイン語訛りの英語をしゃべってるわけだけれど、このジャックのすごいのは、彼は生まれも育ちもアメリカ人なのに、このスペイン訛り英語を完璧にしゃべってるところ。(少なくとも私の耳にはそう聞こえる。)


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ストーリーは、修道院で料理番をしてるイグナシオ(ナチョ)が、修道院の孤児たちにおいしい物を食べさせるため、ルチャリブレ(メキシカンプロレス。メキシコで大人気の大衆芸能。日本のグレートサスケなんかもここのスタイルを踏襲してるよ)で、覆面をしたレスラーとして、もうひとりの変人”ヤセ”とタッグを組んで賞金を得るため戦うが、あこがれのシスターに”ルチャは虚栄心のために戦うから罪だ。”といわれ悩んだあげく、、、というもの。


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このナチョの性格がまたいい。やんちゃな子供がそのまま大人になったような、純粋で、ドジで、優しくて子供好き。
ルチャをやるのも子供らのため、といいつつ、実は同時に子供の頃からルチャが好きで、好きで、とにかく勝ちたい!、、、のだ。
”神様はどうして俺をこんなにルチャ好きにさせといて、弱っちくしたんだろう、、、”とため息をつくナチョ。

修道院ではルチャは罪だとされ、TVで見るのも禁じられてるので、ナチョはばれないように覆面をかぶって試合に出るのです。
”ルチャはお金とうぬぼれのための虚栄心の戦いです。”と、ペネロペ=クルス似の美人のシスター。
”戦うのは罪かな?”と聞くナチョ。
シスターは”貴い目的のため、人を助けるための戦いは、神は祝福なさるでしょう。”
で、子供たちにおいしい食事をだすため、と大義名分を見いだしたナチョはルチャで戦い続けます。

はて?これってどっかで聞いたことあるような、、。
そうだ!“タイガーマスク”だ!(って、どれくらいの人が知ってるかしら、、、このマンガ)
でもこのナチョ=リブレは、実在したメキシコのフライ=トルメンタ(暴風神父)というルチャドール(レスラー)がモデルらしいから、タイガーマスクの方がまねしたのかも、、。

さて、ナチョは宿敵、それこそ金と虚栄のために戦い、他人への思いやりを欠くラミレスとの一騎打ちに勝てるでしょうか?お楽しみに。
いっておくけれど、同じような流れの話でも”ロッキー(パート2以下)”よりはるかに感動ものですよ。

こんな品のいいクオリティー高いコメディーを演じられる俳優は日本にはいるかなあ?。下品なドタバタコメディアンは多いけれど、、、。
植木 等さん、惜しい人をなくしました、、、。


2007年4月 5日 (木)

哲学者の都市案内「京都の平熱」

京都生まれ、京都育ちの哲学者にして現在大阪大学副学長の鷲田清一さんの京都案内、というよりは京都という特異な町の分析ともいうべき本です。



Pltewvdm (講談社 1700円也)




市バス206系統にのって、反時計回りに京都駅から京都駅までを一周する路線に沿って、京都論をあっちへ飛びこっちへ飛びしながら展開。筆者が子供時代から京大の学生時代にすごした思い出の場所や、であった人々について語りつつ、京都という町の過去、現在、あらまほしき未来について論じています。

(206系統:京都駅〜七条通〜今熊野〜東大路〜祇園〜岡崎〜百万遍〜高野〜下鴨〜紫野〜北大路千本〜西陣〜二条〜大宮通〜京都駅:京都の名だたる地名ほとんど入ってます。)

哲学者の本だけあって、ちょっと難解で、抽象的な部分も多いのですが、著者との年齢差は5歳前後、京都で私も共有していた時代の話もあって、うん、わかる。あ、知ってる。ってところもあって一気に読みました。
特に”河原町のジュリー”(20年?くらい前に河原町に出没してた、有名な今で言うホームレスさん)のくだりは、”なつかし〜”と小躍りしてしまいました。

ただし、京都の案内本として期待すると裏切られます。むしろ対象は京都に住んでいる人、かつて住んでいた人。そういう人こそが読むとおもしろい京都の町論、京都人論が展開されています。

もちろん、筆者が愛用したどこそこの何がいい、というくだりもありますが、ガイドブックにはのってないような、そこに住んだ人しかいかないような店、神社仏閣、場所の紹介の方が圧倒的に多い。だからその場所の紹介になると、あ、そこ知ってる。よく行った。とうなづきながら読み進められます。

できた時、賛否両論の激しかった駅前の京都タワーの存在は京都人のトラウマになっているにも関わらず、京都の小学校の校歌に3番目によく出てくる言葉だとか、
いまでこそ高級料理として知られる、鱧や鯖寿司は食材が貧しかった京都人がその乏しさゆえ生み出したぎりぎりの精密な技の結晶だった、とか
京都の代表的イメージである祇園はその特有の情緒のあるたたずまいの中に性病科の医院や、ゲイのたまり場になってる銭湯などの猥雑なものが同居しているかと思えば、突然ロケットのような超近代的建築物にいきあたるような場所であるとか、、、。

着物産業の衰退や、京都の景観保存、昨今の教育論、京都人の美学などなど、語り口が多岐にわたりすぎるので、これ以上は書ききれませんが、どの話もウン、ウンと、うなづけました。

読み終わって、素直な感想。
いつもイケズを言ってるような印象のある京都人にちょっぴり親しみが持てました。smile

終盤のお気に入りの下りを抜粋してみました。
やっぱり素敵です、京都人!

そこで、よそのひとには嫌みに聞こえてもいいから、、、、(中略)、、、京都文化をこのように集約しようと、無粋を承知で取り上げたのは次の六つの得意わざである。これらをあらためてきちんと身につけることで、京都にやってくるひとたちをこれまで以上にびびらせようというのである。そんなに力まなくてもいいのにとおもうのだが、まあ、なんともえらそうな(えらそばっている)、頭を垂れることの嫌いな、困った人たちなのである。
  めきき、、、本物を見抜く批評眼
  たくみ、、、ものづくりの精緻な技巧
  きわめ、、、なにごとも極限にまで研ぎすますこと
  こころみ、、、冒険的な進取の精神
  もてなし、、、来訪者を温かく迎える心
  しまつ、、、節度と倹約を旨とするくらしの態度
京都人の新しもん好き、いけずの批評性、町衆たちが育んできた自治の文化、人工文化への憧憬など、、、、後略、、。


以下は是非お読みくださいませ。

2007年3月 5日 (月)

京都に住まえば、、、

Wlhxxbai
って、京都移住計画中の私のための本やん!
と、本日発売、淡交社の雑誌、速攻買いました!
サブタイトルが
    観光よりも、暮らしてみたい!?

まだ、なかみあんまり見てないんだけど、
    私は町家に住めますか?
    ご近所へいらっしゃい。
    ”京都に住まう”がお茶の入り口
などなど、おいしそうなタイトルがならんでます。
京都の学区のことや、地区別住んでる人しかいかないスポットとか、今すでに京都にお住まいの方にも面白いと思いますよ。
なかには大学時代京都で過ごして、東京で就職後も年に10回は京都に来て、ついに退職して京都に移住したひとの話も、、、これって私と同じでは???
きっと同じもくろみ企んでる人は結構いてるんでしょうね。

そのうち京都はますます流入人口が増えるかもsmile

ネイティブ京都人の方、よそ者あつかいせんとよろしゅうに。アメリカ合衆国みたいに広〜いお心で移民?を受け入れてやってくださいませ。