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2012年3月29日 (木)

映画「道〜白磁の人」公開記念講演会

2年前の夏、高麗美術館になにげなくでかけて、そこで浅川兄弟と初めて運命的な(と、個人的には思っている)出会いをしました。

日本統治下の朝鮮に暮らして、当時の人だれからも見向きもされなかった朝鮮白磁の美しさにうたれ、その研究に朝鮮全土を歩き研究に生涯をささげた兄・伯教(のりたか)。朝鮮の服を着て、朝鮮人と同じ暮らしをし、朝鮮人に一番愛された日本人といわれ、朝鮮人に惜しまれながら夭折、朝鮮の土となった弟・巧。

彼らについては関連書籍も含め、かなり力をいれて一文をものしたので、ちょっとだけ抜粋。

    *     *     *


巧は流暢に朝鮮語を話し、いつもチョゴリ・パジ(民族服)をきてマッコリを飲みソルロンタンをたべ、多くの朝鮮人の友人がいた。彼のわずかな給料は、貧しい家の子供の学費や、生活に困っている家の生活費として消えていったという。

人間的あたたかさ、やさしさ、おもいやりの心をもった、どこか茫洋としたこの青年を、朝鮮の人々は愛したという。

彼の家に遊びにきた朝鮮人の娼婦が同じく朝鮮人の警官とけんかになり、それを尼さんがなだめる、、、という場面もあったそうで、彼の交際は身分など関係のないものだったことをしのばせる。

今の時代でいうと、どうということもないと思えるかもしれないが、かの時代、軍人が電車で座っている朝鮮人の老人をたたせて席を横取りする、ということが平気で行われていた時代の話なのだ。

しかもあまりに流暢に朝鮮語を話し、どこからみても現地の人に見えた巧は、ときに日本軍人に理不尽なしうちをうけたそうだが、決して「私は日本人だ。」と言わなかったそうだ。朝鮮人がそういうときにするように、何も言わずそっとその場を立ち去った、という。

声高に、日本の朝鮮支配を批判したわけでもなく、政治とは無縁の人だった。
ただ、ただ、朝鮮を愛し、その失われてゆく文化、芸術を惜しみ、そして朝鮮に愛された日本人だったのだ。


    *     *     *


出会ってからは、彼らに関する本を読みあさり、東洋陶磁美術館で浅川兄弟〜白磁は二人を忘れない展が来たときにはうれしくて、また会いにでかけたものです。

私は弟、巧の生き方自身にとても惹かれます。
私の敬愛する宮沢賢治と、その生き方はどこか似ていて、しかも40才前に夭折したところもどこか似ていて。

彼の生涯を伝記風に書いた本「白磁の人」の映画化の話があることは知っていました。
それがついに完成、この6月ロードショーなんですって!

それを記念して、公開前に高麗美術館(浅川兄弟の業績をもっと広めるべく、講演会など多数おこなわれています)学芸員、山本俊介さんのトークショーがあると聞きつけ、行きましたっ!

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場所は初めて行くJR京都駅南のイオンモール。(でかっ!)

この中のシネコンT・JOY京都で。


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映画のタイトルは「道ー白磁の人」。
トレーラーをみせてもらいました。

もちろん巧さんには会ったこともないのですが、私の中でこういう人だろうな、、というイメージがなんとなくあって、巧役の俳優さんはちょっと私のイメージとはちがうなあ。
誠実で真面目そうなところはイメージどおりだけれど、実際の彼はお堅い人じゃなくて、もっとユーモアのセンスにあふれた、というか茶目っ気のある人だったんじゃないかな。

それでも当時の朝鮮の風俗など忠実に再現されていて、本編をみるのがとても楽しみです。

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トークショーにどれほどの方が参加されるのかな、と思っていましたら意外とたくさんの方が。
(ほとんど私より年上、、、coldsweats01

若い方にも是非みてほしいものです。
当時の日本統治下の朝鮮の歴史も知った上で。


山本さん曰く、映画では柳宗悦の扱いが小さいのがちょっと残念、と言っておられました。

兄弟の業績は、当時の著名な思想家、哲学者、宗教家、文筆家であった彼なしでは、確かにここまで知られなかったでしょう。

思えば、伯教が初対面の手土産に持参した白磁の壺がなければ、民藝も生まれなかったし、朝鮮民族美術館(当時)の厖大なコレクションも生まれなかった。当時の朝鮮人が捨ててしまっていたその工芸の美しさも歴史の中に埋もれてしまっていたかもしれない。

そのシンボルというべき青花草花文面取壺、柳 宗悦展でも、また見て(実は数回見ているの)、その運命的な出会いに思いをはせたのであります。

高麗美術館では2年前に「浅川巧日記」を歩く、と題したツアーを企画されていたそうです。
巧が勤務した京城(ソウル)の林業試験場、住まいした清涼里、朝鮮白磁のふるさと広州分院里、そして彼が眠る忘憂里(マンウーリ)墓地を巡る旅。

とくに忘憂里の彼のお墓には是非お参りしたいなあ、、と思っているのですが、なかなか気軽に行ける場所ではないのです。
こういうツアーがあるなら是非参加したい(仕事うっちゃっても)!と思っていましたら、今年また企画されるようです。
ああ、これは是非いかなければ!


    *     *     *

<映画HP>
こちら


2012年3月16日 (金)

宮沢賢治・詩と絵の宇宙

東日本大震災から1年、東北は岩手が生んだ宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が復興をめざす人々の愛唱歌になっているそうだ。

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(大丸・宮沢賢治。詩と絵の宇宙展)

それはそれでうれしい。
うちのめされた人の心にしみいる詩だから。

でも、賢治の宇宙はほんとうはもっともっと広いのだ。

実は高校生の頃、私は宮沢賢治全集を学校の図書館でほとんど読破した。
そして賢治についてどんなことでも知りたいと、いろんな資料を読みあさった。

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大学に入って、この全集を河原町の古本屋でなけなしのバイト代をはたいて買った。

そして賢治の足跡をたどって、イーハトーヴ(花巻、盛岡周辺)巡礼をすること2回。

そこまで彼の詩が、物語が、歌が、そしてその生き様が、アドレッセンス(思春期)中葉(これは賢治が生前唯一出版した「注文の多い料理店」で対象者として書かれている言葉です)の私を惹きつけてやまなかったのだ。


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小学生の頃、初めて「銀河鉄道の夜」を、読んだ。

この物語の原稿は散逸部分が多く、未完成原稿であり、話の筋がすっきり終わらないことから、一体最後はどうなっているのだ?といういらだたしい思いをかきたてた。
それだけに気になる物語だったのだ。

もう少し大きくなって、高校生のころに再会できた幸運をよろこばずにはいられない。
未完成稿など気にもならない、おおきくて、おおきくて、はてしなくて、壮大で、、、そして美しい物語としてよみがえった。
(なにしろ「銀河鉄道999」なんて名オマージュができるくらいですから)

そして賢治全集に突進したわけで。

なのに、大人になってしばらくあの賢治ワールドを忘れていったのは、アドレッセンスをとうにとうに過ぎて浮き世のアクにまみれていたからなのだろうなあ。

大丸ミュージアムで宮沢賢治・詩と絵の宇宙をやると聞いて、かつての自分に会いたかったのかもしれない。

賢治の年表、原稿、手帳はもう何度も見ているので頭にはいっているのだが、イーハトーヴ周辺の地図を見たときは、行った時の思い出がいっぺんによみがえって思いがけなく目頭が熱くなった。

イギリス海岸(賢治命名・北上川の白亜紀の岸辺)では賢治作詞作曲の「Tertiary the younger」を口ずさみつつ、
羅須地人協会の建物を見に花巻農業高校に許可を得て入り込む。
賢治設計の花時計を見に花巻温泉へ。
旧花巻農業校跡の「早春の詩」碑を声をだして読み上げ、
旧盛岡高等農学校時代の建物を見るために岩手大学農学部へ。
当時は弟の清六さんの表札がかかった賢治の家をなんどもうろうろ。
盛岡の光源社(「注文の多い料理店」を出版)は今は民藝関係のお店になっている。

はてはセメント工場しかないのに、賢治の晩年の職場だった東北砕石工場あとまで見にいった。

賢治の物語のなかにでてくる地名もつぶさに踏破。
束稲山、早池峰山、遠野、小岩井農場、岩手山、、、、


大丸ミュージアムで今回展示されている多くの物語の挿絵。
うっすらとしか内容を覚えていない物もあれば、はっきり中のセリフまで覚えている物まで、見ながらあの頃の気持ちを追体験していく。
「水仙月の四日」、「雪渡り」、「どんぐりと山猫」そして「銀河鉄道の夜」がやはりいいなあ、、、
賢治の宇宙は美しく果てがなく、こんなにも画家のイマジネーションを刺激してやまないのだな。

それでも、もうあの頃のようにその世界と一体になれることはもうないだろう、という一抹の悲しさも感じる。
賢治、享年37才、それをもうどれだけ過ぎて私は生きてきてしまったやら。


賢治の「農民芸術概論要綱」に当時大好きだった言葉がある。

「まづもろともに かがやく宇宙の微塵となりて 無方の空へちらばらう」


当時、これから始まる人生への道しるべとも思っていた言葉である。

今、自分を振り返って、「かがやく微塵」になれているかどうか、、、はなはだ疑問に思えるのが少し悲しい。

2010年9月 8日 (水)

「瞳の奥の秘密」EL SECRETO DE SUS OJOS

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今年のアカデミー賞最優秀外国語映画賞(「おくりびと」がもらったやつね)のアルゼンチン映画。

いつもはあまり受賞作品だから、とすぐにはとびつかないのだが、なんといってもスペイン語映画だし(生きたスペイン語の学習)、ご愛用シネリーブル梅田上映だったし、前評判がすごく良い、ということだったので。


2時間の長い映画でありながら、ついのめりこんで最後まで見ることができた。
25年もの間のながいロマンスでもあり、どきどきするサスペンスでもあり、考えさせられる重いテーマもあり、少しのユーモアもあり。大人の映画ですね。

ロマンスとしてもさることながら、一番考えさせられたのは死刑とはほんとうに適正な処罰なのか?ということ。
もちろん、安っぽい死刑廃止論ではない。

アルゼンチンには死刑制度はない。
作中で残虐に若妻を殺された夫のセリフ。
「もちろん、僕は死刑は反対だ。無期懲役ですよね。犯人にはこの先死ぬまでずっと、ずっとむなしい時間をすごしてほしい。」
実はこれがこの映画のキーワード。(これ以上はネタバレになりそうなのでやめておきますが)

簡単に殺してしまえば、被害者家族はいっとき気がはれるだろう。
そういう意味で、私は死刑もやむなし、と思っていたのだが。
しかし、そんなに早く、ある意味楽にしてやってよいのか。

無期懲役こそが実は一番残酷な刑罰である、という考え方もある。
(日本のように無期懲役でも何年かしたら出てくるのではなく、死ぬまで服役)

これは死刑存続派にも死刑廃止論者にも考えて欲しいテーマ。

死刑は残酷だから廃止、というならずっと檻に閉じ込められて死ぬまで、、、というのは残酷ではないのか。
被害者家族感情を考えると報復に死を、というなら、殺人者には一瞬の苦痛、しかし家族にはおそらく生きている限り続く苦痛。心は癒されるのか。

さらに無期懲役ならば、われわれの血税で殺人者を長く食わせてやらなければならない矛盾も。

物語のスタートは70年代のアルゼンチン。
軍事政権が国民弾圧を始める直前で、世相は不安定、政治家や公務員、警察は腐敗していた時代背景も頭に入れておいて見た方がいいだろう。(なんで判事があんなに違法行為を楽々出来るの?という場面があるので)

主人公の、年上のアル中の部下、ウッディ・アレン似の男優さんがとても良い味をだしていた。
酔っぱらって奥さんに家から閉め出されるかと思えば、するどい推理を披露する。
とぼけた味があると思えば、最後に尊い人間としての尊厳をみせつける。
へたくそな役者がやるといかにも作り物っぽいところを、さすが最優秀助演男優賞を受賞した役者さん、むべなるかな。

最後にタイトルについて。
瞳の奥の秘密、、、、だれの瞳か?ということ。

この原題ではsus ojos。

スペイン語のsu(s)は英語でいえばhis(彼の)やher(彼女の)にあたる所有をしめす形容詞。ときには丁寧語のyour(あなたの)であることも。

つまり誰の瞳にもあてはまるということ。

そう思って考えると、ヒロインの瞳でもありうるし、被害者の夫の瞳でもありえる、、、

だれでもその瞳の奥に秘密をかくしている、、、そういうことか。


2010年9月 3日 (金)

茶箱のお稽古〜「洛中の露〜金森宗和覚え書」

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玄関にこの季節初めて萩を生けてみました。
ふつうならそろそろ花が咲いているのですが、ごらんのようにつぼみのままです。

あんまり暑いので、とうてい単衣を着る勇気がでません。
お稽古はやっぱり夏着物でいっちゃいました。

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麻の帯もやはり夏だけなんでしょうか?
単衣の季節にも紬なんかには締めてよいものでしょうか?
まあ、文句を言う人もいないだろうと、春に京都の素心庵でkimono gallary晏の展示会でもとめた紅型帯を、おろしてみました。
(真夏は着物にどうしても手が伸びなかったのよ〜)


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先生のところのお花。
水引草のつぼみもまだなんだか堅そうですね。


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お菓子はまだ寒天系。「夜半の月」。
来週はもう重陽(9月9日)だというのに、とても菊をもちだせる気候じゃございません。

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茶箱の「雪」をされるお弟子さん。
私は「月」をさせていただきました。

あれほど複雑にみえた月点前ですが、なんだか今年は意外と軽々できたことに我ながら感心。
これこそ真の点前までいった貫禄というものよ、、、むっふっふhappy02というのはうそ!です。
何回もやってりゃねえ。なにごとも繰り返し復習が大事、ということでしょう。

それにしても器据のうえにずらっと道具を並べる月点前はほんとに優雅。

来週はいよいよ、自分の御所籠をもちこんで、色紙点前を習うんだ!うへへhappy01

さて、最近読んだ茶道関係の本のご紹介も。


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金森宗和といえば「きれいさび」「姫宗和」というのがキーワードの安土桃山〜江戸初期の茶人で、野々村仁清を庇護したことでも有名ですね。
でもなんといっても特異なのはその出自。
もともと飛騨高山藩主・金森可重の嫡男でありながら、廃嫡となり、京で茶三昧の生活を送ったそう。

その廃嫡の理由はいまでも謎につつまれているとか。
一節には大阪冬の陣での出陣をめぐって父と激しく対立した、といわれるが、この本では金森家を守るために、徳川のご時世、豊臣との縁の深かった宗和が自ら身をひいた、ということになっている。

これは真田信幸・幸村兄弟(どちらが生き残っても真田の家が残せるよう、一方は豊臣、一方は徳川についたといわれる)みたいに、あの混沌とした時代にはありそうな話で、こちらの方が納得できる理由だなあ。

このように、宗和は茶人として名を残したが、あの激動の時代=大阪冬の陣、夏の陣洛中に露と消えていった名も無き茶に関わった者も多かったと思われる。そんな人々の生き様を宗和を狂言回しとして描いたのが本作。

言葉遣いもむつかしく(歴史的な今はだれもしらないような言葉多数)さらっとは読めないのですが、何度もいろんな本でおめにかかった当時の有名な茶人や、武将の名前もたくさんでてくるので、興味を持って最後まで読めました。
そういう人物たちの相関図が、初めて知ることもあり、なかなか楽しかった。

「へうげもの」古田織部もりっぱな悪役(!)として最後の方に登場!
織田信長の弟で、茶人として名をのこした有楽斎の世渡りのあまりに上手なこともよくわかったし、信長の子ども達って豊臣の時代になると影がうすすぎて、どういう運命をたどったのかさえ、しらなかったのですが、それもこの本で学習できましたわ。

何編かあるうちで一番印象に残ったのは「弥助」というエピソード。

弥助は信長に従っていたアフリカ出身の黒人で、本能寺の変で明智軍に捕縛されたが、光秀の命令により解放されたといわれるが、以後の消息は一切不明とのこと。(「へうげもの」にも登場していましたね)

信長は名物茶道具をたくさん所持していたことでも有名ですが、そのなかのひとつ、瀬戸黒(本書では引出黒)の茶碗にまつわるエピソード。
後日おむく斎とよばれるようになった信長の従者と、いわば奴隷身分でありその容姿ゆえに辛い思いをしてきた弥助との交流をえがいている。

おむく斎が、弥助の面倒をみはじめたことから、彼の辛い数奇な人生をしり、彼の人となりを知り、心通わせるようになるふたり。
彼を獣扱いにする武将に「あれなるは人でございます。」と訴えるおむく斎。

本能寺の変で捕らえられ、光秀に「獣を切っては人に笑われる」と解き放たれたにもかかわらず、「わしは人じゃ。」と誇りをすてなかった弥助。

光秀は信長所有だった茶道具からこの瀬戸黒をさしだし、「路銀の足しにせよ。」と、ふたりを逃がす。

時は流れこの茶碗は幾多の手をへて、道安(利休の長男)、その弟子であった宗和の父、そして廃嫡された息子=宗和への餞別となり、彼の手元にある。

ひょんなことから、このおむく斎を茶会に招いた宗和はその瀬戸黒をだす。
この茶碗を手にしたおむく斎がその弥助とのエピソードを語り始める、、、という形をとっている。

そして最後、瀬戸黒を指でなでながら、発されたおむく斎の言葉。

「艶やかな黒でござろうが。やつがれ僭越ながら、ただいま銘もつけもうした。」
「弥助、と申す。末永う可愛がっていただけば、泉下の弥助もうかばれましょう。」

時代を越え、所有者をかえ生き延びる。
茶道具であればこそありえるシチュエーション。

その瀬戸黒が目に浮かぶような名シーンだと思いました。


2010年7月12日 (月)

「ええもんひとつ〜とびきり屋見立て帖」山本兼一・著

「利休にたずねよ」で直木賞をとらはった山本兼一さんの新刊です。

実は山本一力さんの本だとばかり思って中も見ずに買ってみて、「あれ〜?一力さん、京ことば上手に使わはるな〜。」と。

あはは、、、兼一さんの方でした。京ことばがお上手もなんも、京生まれの京育ちのおひとやんか!

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舞台は幕末の京の町、三条木屋町に「とびきり屋」という骨董屋をかまえる若夫婦、真之介とゆずを巡る物語。

骨董屋さんの仕入れや、商売の仕方など、裏側をのぞけるのも楽しみだし、ストーリー自体もほのぼのとして面白いのですが、私が一番楽しんだのは、京都の地名がたくさんでてくることなんです。

もちろん、幕末のころの京都と今の京都は違うことも多いとは思いますが、少なくとも通りの名前や、100年以上の歴史を持つ老舗やらはかわらないわけで、地名を聞いただけで、ああ、あの辺や、、と頭にうかべてはニヤニヤしてしまいます。


(こんなに変わらない町って他にあるでしょうか?)

しょっぱなから下御霊神社が出てきて、ああ、寺町のあそこやな、、、と。

ゆずの実家が新門前の格式のある大きな骨董屋、とくれば新門前、古門前の骨董屋ストリートを思い浮かべますし。

三条通りの富小路あたりの名代の扇屋、、、とくれば、ははあ、、宮○売扇庵だな。

山本氏の茶道や香道への造詣の深さも生かされていて、作中にでてくる骨董品には、聞香炉や茶壺など、茶道・香道の道具も多く、道具の見分け方の参考になるようなことも書かれていて、勉強になります。

登場人物も魅力的な主人公(とくにゆずさん、すてきどっせlovely)だけでなく、坂本龍馬や桂小五郎、その奥さんの幾松さん、新撰組の芹沢鴨まででてきはるのえ。(なんだか自然に不自然な京ことばになっちゃうな〜coldsweats01

そして規模としては小さいながら、おなごし(女子衆)さん、丁稚さんを何人か、かかえる京の商家のくらしが垣間見えて、そして町家のたたずまいまでが目に浮かぶようでした。

「何十年、何百年とつづく京の古い店は、どの家も、じぶんたちの商売をかたくなに守り通している。それは、人と人のつながりがあってこそ成り立つ。仕入れ先と店。店と客。長年にわたって培われた信頼関係があればこそ、商売がうまくまわっている。」

京の老舗の極意ですなあ。

願うらくは、こういう矜持をもったお商売の仕方が、この先もずっと王道であり続けますように。

この「とびきり屋見立て帖」は多分シリーズ化されると思うので、続きが楽しみです。
この仲良しの夫婦、実は駆け落ち同然、その夫婦の物語の今後もみのがせませんわ。


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「ええもんひとつ〜とびきり屋見立て帖」

  山本兼一・著   文芸春秋社

2010年5月27日 (木)

「井戸茶碗の謎」「神の器」〜申 翰均

それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使ふ茶碗である。
全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。
作る物は卑下して作ったのである。個性等ほこるどころではない。
使ふ者は無造作に作ったのである。
・・・・・・・・・・・
土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。
形に面倒は要らないのである。数がたくさんできた品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。
手はよごれたままである。釉をたらして高台にたらしてしまったのである。
室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。
引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわってはいないのである。
またいられないのである。安物である。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。
・・・・・・・・・・・・
これほどざらにある当たり前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。
・・・・・・・・・・・・
あの平々凡々たる飯茶碗がどうして美しい等と人々に分かり得ようや。
それは茶人達の驚くべき創作なのである。飯茶碗は朝鮮人たちの作であらうとも、「大名物」は茶人達の作なのである。

                    柳 宗悦 「茶と美」


まさしく私の愛読書からの井戸茶碗に関する引用。

そして井戸茶碗=朝鮮の雑器、、、と大方の日本人(多分大方の韓国人も?)は認識していたと思うが、それにまっこうから異を唱えたのがこの本。

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「井戸茶碗の謎」申 翰均・著  バジリコ株式会社


そらいろつばめ様から教えていただいた本です。

著者の父上は初めて高麗茶碗を再現した陶芸家で、彼もまた陶芸家であり、韓国陶磁器の研究をされている。

彼によると、井戸茶碗は、宮中用祭器に対して庶民の祭器であったという。

祖先を祀る祭器であれば、それは高い技術と細心の注意をもって、陶工たちがこしらえたもので、片手間にさっと作られた雑器ではありえない、と。

不思議なことに、いまでは韓国の人ですら、井戸茶碗の本当の使われ方を知らないそうだ。
むしろ、柳の雑器説が大方に受け入れられているらしい。

なぜ、高麗茶碗(井戸、三島、刷毛目、熊川、斗々屋、金海、伊羅保などなど)が朝鮮半島でも作り方がわからなくなるほどとだえたのか?
それは当時の朝鮮人、特に両班階級が、白磁の発明とともに、端整さと白の色を好み、白磁ばかりを使うようになったからとも、豊臣秀吉の朝鮮侵攻のとき、多くの朝鮮陶工が日本に連れ去られて打撃をうけたからとも。


朝鮮半島ではほとんど井戸茶碗は出土しないそうで、それが著者の祭器(=先祖を祀ったあとは粉々に割って、別の場所に埋めた)説の根拠の一つになっている。
他にも、井戸茶碗が安定の悪そうな高い高台をもっているのは、祭器(=この茶碗にそなえられたものは絶対に食べない)であるがゆえで、もともと日本人とちがって、茶碗を手に持たずに机においたまま食べる朝鮮人にとって、安定の悪い茶碗は実用になりようがない、とか。

この新しい井戸=祭器説はどのくらい受け入れられるだろうか。
これに関して著者以外に研究している人はいるのか。

知識のない私としては反対、とも賛成、とも言いかねるが、さまざまな窯の跡をたずね、自分でも作陶されるという、肌で感じるもののある著者の説は説得力がある。

そして多くの現代までの陶工が試みてきて、ことごとく失敗した、井戸茶碗の再現。
それほど井戸茶碗は高い技術がないと作れない、ということはよく理解できた。

だから柳の文のように、貧乏な陶工が雑に大量に作った物ではない、ことだけは納得。

しかし、貴族階級の両班たちが使った祭器にくらべて、高い技術で作られた物ではあったものの、決してとりすました、フォーマルな物ではなく、あくまで庶民のものであっただろうし、それゆえに唐物に対する存在としてあえて「雑器」としたのは柳のレトリックだと思う。

均整のとれた器ではなく、少しゆがんだ井戸の美しさ。
それに美を見いだしたのは紛れもなく日本の茶人であったけれども、それを作った陶工たちもまたそのゆがみやわざと残した轆轤目に美しさを表現しようとした、のもまた真実ではないかと思える。

今後の研究でどのように展開して、どのような結論が出るのか。
今の今まで、井戸茶碗は朝鮮の雑に作られた雑器であると信じて疑わなかっただけに、目からウロコの本でした。
(この本は「へうげもの」の公式HPにもとりあげられています)

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さらに驚きは、筆者がこういう小説も書いていること。

秀吉の朝鮮侵攻時、日本に連行された朝鮮陶工が一生をかけて、井戸茶碗を作ろうとする物語。

主人公は架空の人物だが、他の登場人物はほとんど実在の人物。
特に、日本に陶芸の高い技術をもたらした朝鮮人陶工(多くはむりやり拉致されてきた)たちの実像は、悲惨さも、栄光もあり、初めて知ることばかり。小堀遠州や細川三斎なども登場。

朝鮮側から見た、文禄・慶長の役(朝鮮侵攻:朝鮮では壬申倭乱)についても、たいへん興味深く読んだ。
有田、唐津でなぜあれほど焼物が発達したのか。
連れてこられた朝鮮の陶工たちの力なしでは、当時西洋でたいへん人気があり、日本の主要輸出品にまでなった陶器は生まれなかったことも、再認識。

そして、著者はご自分の井戸=祭器説を、この小説でさらに説得力のあるものにするのに成功した、と思う。


これらの本を読み終えて、なぜあれほど当時の茶人が井戸をはじめとする高麗茶碗に熱狂したのか、高麗茶碗とは一体どういうものだったのか、わずかながらわかったような気がする。

茶碗一つに、どれだけ陶工たちの熱い情熱や苦労がこめられているか。
そのことに思いをはせる心構えはなにより大切だと、思った次第。

できうれば、一生に一度、ほんものの井戸茶碗をこの手にふれることができたらな〜。

2010年1月 6日 (水)

「仮想 茶会潜入記」 谷 晃・著

茶の湯文化史の研究家、野村美術館の学芸部長、そして心茶会の遠い先輩である谷先生の本をご紹介。

茶道雑誌「淡交」に連載されていた当時から、茶会記をかくもわかりやすくおもしろく書かれた物は初めて、と思って楽しく読んでおりましたが、加筆されてやっと単行本になりました。


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設定がユニークです。

稲田宗雁という谷先生を彷彿とさせる架空の茶人(実際、挿絵の髷を結った宗雁さんはお髭の谷先生にそっくり!)に時空を越えて実際歴史上にあった茶席に参加させ、使われた種々の道具、供された料理、参席した客、席の雰囲気などを綴らせているのです。

実際の茶会記は読みづらく、(古語なので)理解しがたく、お手上げ、全然読もうという気がしないのですが、こんな風に短編小説風にかみくだかれると、こうも興味深いものになるとは。


ただ16世紀以降の茶道の歴史の知識、時代的背景の知識が多少必要です。逆に、出てくる人物に多少でも知識があればおもしろいことうけあいです。

そして、谷先生の茶道に対する考え方もチラホラ垣間見ることができる茶道論にもなっています。


全編28茶会、松永久秀の多聞山城茶会からはじまって、信長、光秀、秀吉の茶の湯がもっとも革新的な発展を遂げた時代の茶会、利休最後の茶会、ここだけフィクションの利休亡き後の利休亡魂茶会、時代がうつって小堀遠州、片桐石州の茶会、禁裏の茶会、金森宗和、千宗旦、藤村庸軒、松平不昧、幕末の彦根の茶会、、、、もう綺羅星のごと。

近代にはいって野村得庵(野村碧雲荘・野村美術館ね!)など近代数寄者たちの茶会。

かれらが「発明」した「大寄せの茶会」や「点てだし」、など見て、「ずいぶん茶の湯も様変わりした。」
と思う宗雁さん。

16世紀からかれこれ400年近くを幽明の境を行き来していた彼がどっと疲れ、「わたくしもそろそろ身をひくべき潮時のようだ。」と思わせたのがこの大寄せの茶会。

近代数寄者の発明したこれは、一時はすたれかけた茶道を蘇らせ、さらに多くの人に茶の湯を普及させた、という功もあるが、あまりにも簡便にすぎて、茶の湯の根本ととおくへだったったものにしてしまった、という罪もあると思う。

一座建立も一期一会も知的格闘もへったくれもありませんからねぇ、、一般的に大寄せ茶会は。

そして、どうもその後、成仏してしまったらしい宗雁さんの最後の(フィクションですが)茶会が天上茶会。

お先に天上へ行った方々と再会されたようです。

利休や古田織部、小堀遠州、松平不昧からなんと岡倉天心(「茶の本」執筆)などと茶の湯談義をされます。

「茶の湯は古くから禅の考え方を取り入れてきたと言われるが、茶の湯には禅だけでなく、道教も神道の考え方もある。」

なるほど。

これは谷先生の茶道論でもあるのでしょう。

なんと心茶会の久松真一先生の言葉も引用されています。

利休曰く「私の茶の湯は絶対的なもの、唯一無二なものではなくて、たとえば天心さんが茶の湯について考えたこともその通り。遠州さんにしてもしかり。さらにいえば芭蕉さんが”貫道するものは一なり”といったことが非常に重要です。ですから私だけでなく、織部さんの、不昧さんの、それぞれの茶の湯において貫道するものを見つけること、さらにいえば日本文化に貫道するものがなにかを理解すること、それは頭や理屈でなく茶の湯の実践を通じて体得することですが、それを久松さんは”心のひとつがね”という言葉で表現した。」

む、む、む、、、、むつかしい。

理解した、、、とは言い難い。

まあ要するに自分なりの茶の湯の道を続ける理由を一生かかってみつけろ、ということだと理解しておこう。

2009年12月16日 (水)

漢詩の世界

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私のお茶セット。

いろいろな種類のお茶をたしなみますので、すべてに対応できるお茶セットが欠かせません。

ちなみに内容は、抹茶と茶杓(あ、茶杓の汚れは気のせいですよcoldsweats01)、茶漉し、宝瓶(取っ手のない急須)、湯冷まし(ミルクピッチャーを流用)、茶葉を測るティースプーン。

抹茶、紅茶、煎茶、中国茶、ハーブティー、なんでもおいしくいただけます。

さてさて、半年ほど前から出勤前にTV見ながら化粧をするのですが(あまり変わり映えしない顔ですけどぉ、、、)、ちょうどこの時間、朝の7:25〜7:30にNHKハイビジョンで「新漢詩紀行」をやっているのです。

たった5分の番組ですが、高校時代大好きだった漢詩の世界を、映像とともに見ることができるので、朝の楽しみの一つになっております。

高校時代、もちろん、やまと言葉の和歌は大好きだったのですが、もっと好きなのは漢詩だったのです。

愛読書の中には、もれなく吉川幸次郎、三好達治、共著の岩波新書「新唐詩選」がはいっておりました。

声に出して読むと、その言い切り、体言止め、のりりしい語感が大好きで、今でも全部は無理でも一節だけは覚えている、という漢詩がたくさんあります。

世間のいそがしさに飲まれてすっかり忘れていたその世界を思い出させてくれ、おもいっきりツボをヒットしてくれる番組なのです。

ああ、きいたことあるある、という詩から、よ〜く知っていて愛唱していた詩、いままで知らなかった詩、朗読は加藤剛さんのしぶいお声で、またこれがよろしいのです。

とくに西域の辺境の地へ送られた兵士たちをうたったものは、その映像にいにしえのシルクロードもかくや、という映像がついていて、心かきたてられます。

あのころ(高校生)井上靖の西域小説にはまって、古代シルクロードへの強い憧れと共に、よけいに漢詩の世界にはまったような気がします。

また、お茶室で拝見する軸の文句は禅語が多いのですが、漢詩もよく使われていますよね。

特に宋代最高の詩人、蘇軾(蘇東坡)は詩人であったと同時に禅の大悟を得た人でもあったそうです。

だから納得したのですが、「無一物中無尽蔵」など、禅語だと思っていたものが実は蘇軾の詩の一節だったのです。

「柳緑花紅 真面目」も、春ののどかな景色を歌ったものだとばかり思っていましたが、ここにも禅の悟りの境地がしめされているのだそうです。

これはやはりまた漢詩も勉強しなくては。

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書道のコーナーでたまたまこんな本を見つけて、つい買ってしまいました。

新漢詩紀行で紹介されていた漢詩が多く収録されているので。

五言絶句、七言絶句といわれる短い(4行)漢詩ばかりを集めたものですが、読んで懐かしい物が多い。

毎日一句音読してみようかな。

ちなみにNHKの番組は副音声で本場中国語の読みが聞けます。

ただし、高校の漢文教師もそれを聞かせてくれたけれど、漢詩は日本語読み下しのほうがぜえったい良い!と独断で思います。

かつて西域ロマンをかきたててくれた一句。是非声にだして読んでみてください。

     渭城朝雨潤軽塵
     客舎青青柳色新
     勧君更尽一杯酒
     西出陽関無故人      王維

渭城の朝雨、軽塵を潤し
客舎青青柳色新たなり
君勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関をいづれば故人なからん


渭城:西安市の北に位置し、渭水に望む渭城は都を離れる旅人を見送る地として著名。
陽関:敦煌市の南西70余㎞、古代シルクロードのひとつ『西域南道』の東の関門であった。ここを越えるともう西域、知った人(故人)ももういない。

2009年9月29日 (火)

「洛中いぬ道楽」〜京都で犬と暮らす〜玉葱ぽん・著

ベトナムから帰ると、、、猫が一匹、ふえてたcoldsweats02

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娘がおいていったフレディさん、また帰ってきました。

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ひと月、宝塚へ里帰り滞在のご予定だが、シェルにとっては迷惑この上ないお客のようで、、、。

それにしてもぶどう対岡山の桃対決(?)


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さて、京都ブロガーさんで、時々一緒に遊んでもらっているぽん様がついに本をださはった!

といっても、もともとライターさんで、全国誌にも登場されたことのある方なので、いつかは本ださはるやろな、とは思うておりました。

これ1冊をベトナム旅行で読もうと、、、、思っていたのに、関空で飛行機に搭乗するまでに読破しちゃって、、、coldsweats01

つまりそれほど読み始めるとひきこまれてとまらなくなるおもしろさ、であります。

これは、ぽん様ご夫婦が、引き取り手がなければ死を待つだけの子犬を引き取られ悪戦苦闘(?)した実際の記録なのです。

生き物ゆえに、こちらの思うようにはいってくれず、手間ひまかけさせられ、さらには京都という狭い世間の中でご近所さんに迷惑をかけたりかけられたり、それでも「京の人づきあいの智恵」をもって折り合いを付けながら犬たち(ぱる君とぷんて君)にそそぐ限りない愛情がなかせます。

本の中でもいっておられますが、一番腹が立つのは、いったん飼った動物を飽きたから、とかめんどうだから、大きくなって食費がかかるから、、、などの身勝手な理由で捨てたりネグレクトしたりする飼い主!

一度引き受けたらよれよれになって介護が必要になっても、惚けて粗相をしても、責任を持って最後まで愛しぬけ!
その覚悟がないなら初めから飼うな!

これは私も声を大にして言いたい。

さて、この本で私が一番夢中で読んだのは実はややこしいご近所さんとの大小さまざまなトラブルの一節。

近所づきあいの間の取り方のむつかしい京都でなくても、おるおる、どこにでもおるよ、こういうご近所さん。

うちも今の家に引っ越してきたときに、初め親切そうだったご近所さんがえらいトラブルメーカーで、いろんないやな思いをした経験があります。(今でもその一家とは口きかないpout

この本にでてくるご近所さんと共通だな、と思うのはまわりの状況のよくわからない新参者に

「あんたとこには、みんなが迷惑しとる。」

という論法を使うことだな。

まわりみんなが敵なんだ、と被害妄想におちいらせてびびらす。

本当は文句をいっている当のご本人だけの意見なんだが。

私も若い頃はそれがわからんで、外にでるのも憂鬱だった時期がある。状況がわかってみればみんなに迷惑扱いされてるのはそっちやん、、、ってわかるのに。

いや〜、今度の引っ越し先も同じようなややこしいご近所さんがいっぱいいそうだな〜、、、でも「京都人のご挨拶」を学習して、ちと距離をおいた冷静な見方をしないとね。

でも、ぽん様には

「元気にしてるか。はじめだけ親切であれこれかもうて、気に入らんことがあったら手のひら返すような人もいるけど、気にしたらアカンえ。もっと伸び伸び暮らしなさいや。」

と声をかけてくれるご近所さんもいて、これもひとえにぽん様ご夫婦の人徳でしょうが、ほっとしますね。

さて、要介護犬になったぱる君には一度お目にかかったことがあります。

大型犬の介護がいかに大変かは、ぽん様のブログでよくわかります。

足腰がたたなくなっても外にお散歩に行きたい!という切なる願いをかなえるため、犬用車椅子(?のようなもの)をこしらえたりして、その愛情がどれだけのものなのか、ちょっと書いてて涙ぐんでしまうほどです。

犬好きのかたも、猫派のかたも、京都の人づきあいのむつかしさを実感されておられる方も、ご一読おすすめしますよ。

さて、続編として、老犬介護編を是非、読ませてほしいです〜。


2009年8月 5日 (水)

「この世界の片隅に」〜こうの史代・作

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8月、、、というと6日の広島、9日の長崎、15日の終戦記念日、ある程度以上の年齢の人なら戦争のイメージをもっているのではないでしょうか。

私はもちろん戦後の生まれではありますが、物心ついた頃に、まわりには戦争のことを語る大人はまだ多くいました。

いまでは戦争の語り部も少なくなり、残念ながら若い世代には遠い夢の国の話に風化しつつあります。

こうの史代さんを知ったのは2年前夕凪の街・桜の国という、戦後10年たった広島、最後には原爆症でこの世を去る娘と、さらに現代に生きるその姪のことを描いた作品を読んでからです。

とてもいい作品で、映画にもなったそうですが、決して原爆の物理的な悲惨さを声高に語った物ではありません。

被爆していつ発症するかわからない原爆症の恐怖をかかえながらも、全く肩に力を入れないで自然体に、少しとぼけたような日々を送る主人公の日常をていねいに綴っているだけなのです。

だからよけいに、彼女の死を暗示するラストが、原爆が人類になにをしたのか、、、を問いかけてくるような気がするのです。

そしてこうのさんの新しい作品、「この世界の片隅に」、これもまたとてもしみじみ心にしみてくる良い作品でした。

昭和9年から終戦の20年の年の暮れまで、主人公すずの広島での子供時代から、呉へ嫁いで北條すずとなってから、、、昭和の暮らしがていねいに描かれています。

こうのさんの描く女の子はとてもかわいくて、特に小さなおかっぱ頭の女の子が照れて笑っている姿はもう、抱きしめたくなるくらいいとしいのです。

すずは絵を描くのが好きで、どこかとぼけた娘で、今の言葉で言うといわゆる「天然(ぼけ)」でしょうか。

呉に住む夫となる北條周作さんとの子供時代の出会いはじつはとてもシュール、、、かつラストの伏線にもなっています。(まあ、これはネタバレになるので読んでね)

周作さんに望まれて、若くして嫁に来たすずは義父母、叔父叔母、そして近所の人たちに温かく迎えられます。

ちょっととぼけてて、たよりなく不器用なところがほおっておけないのでしょうか。


時代は戦争へとつきすすみ、呉は空襲爆撃をうけるようになります。

毎夜防空壕に逃げ込んだり、町にがれきや死体が転がる状況下においてもなお、すずはユーモアやおもいやりを忘れず、自然体で生きていきます。

食糧難で道ばたの雑草を使った楠公飯という超!まず〜い代用食の作り方や、落ち葉を焦がしてこねて作る代用炭団(たどん)の作り方や、着物からもんぺを作る作り方。こんなことまで描かれています。

これは生きた戦争中の昭和文化史にもなっています。

(作者はもちろん若い方ですので、お年寄りから聞いた話で描かれているのですが、もしまちがったことを描いていたら訂正してください、というコメントをつけてはります。)


さて、いつしか北條の家で自然に家族の一員になったすずですが、ただ一人、出戻りの義姉さんだけはちょっと意地悪。
でも私は全編をとおして、この義姉さんとすずの関係が変わっていくところがとても好きです。

嫁いで若くして夫に先立たれ、跡継ぎの息子は婚家にとられ、幼い娘の晴美をつれて帰ってきた義姉さん、すずのぼ〜っとした垢抜けないところが気に入りません。

ある日、「お母ちゃんの具合が心配で周作の結婚をせかしたけれど、わたしがずっとおりゃ嫁なんぞまだいらんかったんよね。、、、すずさん、あんた広島へ帰ったら?」

と暗に離縁をほのめかして義姉さんは夕食時にみんなの前で言います。

すずは天然(?)ですから、「ええんですか?(里帰りしても)」と逆によろこぶ勘違い。

ところが義父母までが「ほんまじゃ、気がつかんでわるかったのう。径子(義姉)も言うとるし、2,3日ゆっくりしてくりゃええよ。」と勘違い。

それだけ、すずはもう北條の人間になりきっていたのですね。「ありがとうございます!!おねえさん」と逆に感謝され「そ、、そりゃよかった、、、」と言うしかない義姉さん。悪い人じゃないのですよ。でもその顔がおかしくて。

それにしても里帰りしてうたたねをし、目覚めて「あせったあ、、呉へお嫁に行った夢見とったわ!」と、ぼけるあたりさすがすずです。母親にほっぺたつねられてましたけどcoldsweats01

戦況が悪くなる中、口ではきついことを言ったりしつつも、義姉さんはすずをなにかとかまってくれます。
義姉の娘、幼い晴美ちゃんは、すずによく遊んでもらいすっかりなついています。

ところがある日、投下された時限爆弾の炸裂が、すずの絵を描くのが大好きだった右手と、その手をしっかり握っていた晴美ちゃんの命を奪ってしまうのです。

「あんたがついておりながら、、、人殺し!晴美を返して!」

傷を負ったすずに義姉さんは、つめよりますが、心では決してすずを恨んではいないのです。どこにもぶつける場所のない思いを叫ぶことで少しでも紛らそうとする、せつない場面です。

広島から、すずを見舞いに来た妹は「家のことができんかったら、北條の家におりづらいじゃろう。広島にかえっておいでや。」といいます。

晴美を死なせてしまったこと、周作さんが結婚前につきあっていたらしい赤線(わからない若い人はしらべてね)の女性りんさん(すずはこのりんさんとも友達になっているのですが)のことで周作さんとのあいだにできた小さなわだかまり、たびかさなる爆撃、、、、耐えきれず心が弱くなったすずは、実家の広島にかえることを決意します。

たとえ「すずさん、わしは楽しかったで。この1年、あんたのおる家へ帰れて。あんたと連ろうて歩くんも、たらたら喋るんも嬉しかったで。あんたは違うんか。」と周作さんに言われても。

その運命の8月6日の朝。片手で不自由そうに荷物をまとめるすずに、口ではきついことをいいながら、自分で縫った、片手でも着られるもんぺを渡す義姉さん。

そしてすずの髪を梳いてやりながら、、、

「こないだは悪かった。晴美が死んだんをあんたのせいにしたりして。」

「周りの言いなりに知らん家へ嫁に来て、言いなりに働いて、あんたの人生はさぞやつまらんじゃろう思うわ。
じゃけえ いつでも往にゃええ思うとった。ここがイヤになったならばね。」

「ただ言うとく。わたしはあんたの世話や家事くらいどうもない。むしろ気が紛れてええ。失くしたもんをあれこれ考えんですむ。」


「すずさんがイヤんならん限りすずさんの居場所はここじゃ。くだらん気兼ねなぞせんと自分で決め。」

そしてすずは、、、「やっぱりここへ居らしてもらえますか」

腕にすがりつくすずに、義姉さんは「わかったから、離れ!暑苦しい」と口は相変わらず悪いですが、うれし涙です。


その時、、、、、、、、

「、、、?、、、なんかいま光ったね?」


、、、、、、、はるか広島の空で炸裂した原爆の閃光が呉にも届いたのでした。

そして終戦。

広島の実家のすずの母は爆心地で亡くなり、母を探しに行った父は数ヶ月後に原爆症でなくなり、妹は親戚のうちでふせっていました。腕には出血斑がつぎつぎと。彼女はすでに重い原爆症を発症していたのです。

「すずちゃん、うち治るかねえ、、、」

「治るよ、治らんとおかしいよ、、、」

これもせつない場面です。

妹を見舞うことが出来たすずと、迎えにきた周作さんは、家に帰る前に小さな原爆孤児の女の子にであいます。

「あんた、よう広島で生きとってくれんさったね。」

二人はこの子を呉へ連れて帰ります。北條の家族はなにも訳など聞きません。すんなり事態を受け入れます。

そして、最後の一こま。

義父母は「とりあえず風呂かのう。」「ものすごいシラミじゃ。大鍋に湯う沸かし!着とるものみな煮るで。」

叔父叔母は「明日米軍へ連れて行き。DDT(わからない人は調べてね)をまぶして貰うたらええわ。」

そして今は亡き娘の遺した洋服を引っ張り出して「晴美の服じゃ小まいかねえ、、、」と早速思案する義姉さん。

家族がまだ家族でありえた時代のお話。


自己中心的な人が次々おこす事件、家族は求心力を失い、地域では他人のことにお互い無関心。
当座は戦争の心配もなく、物も豊かにあふれている今という時代が、決して幸せな時代ではないことをあらためて思います。

やわらかい、私には近しい広島弁(私は岡山弁speaker)、こうのさんのやさしく暖かい絵、この家族の暖かさにいやされながらも、悲しみを感じるのはその背景に色濃く陰をおとす戦争のせいなのでしょう。

決して声高に戦争の悲惨さを訴えてはいません。でも確かに反戦の思いを心に種まく作品だと思います。

2009年7月15日 (水)

「宵山万華鏡」森見登美彦

やっとでました!

久々の森見登美彦さんの京都ファンタジーです。

森見さんと言えばきつねのはなしなど、京都パラレルワールドの話を書かせたらピカいちです。

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宵山といえば、私には、大學にはいった年の最初の宵山が思い出されます。それだけ初めて見たときのインパクトが強かったのです。

子供の頃、夜店の出るお祭りは、故郷の町でもなぜか不思議な空間で、きらきらする照明やら、焼きイカのにおいや、綿菓子、金魚すくい、、、いつもの町とまったくかわってしまうことにわくわくしたものでした。

ただそこにはやはり闇のような空間も確かにあって、「あんまりうろうろすると、子捕りにつれていかれるよ。」という大人の言葉が妙にリアルに聞こえたものでした。

それが祇園祭宵山では都市レベルであるのですから、それはもう田舎からでてきた女学生をびっくりさせるに十分でした。

さて、この本ですが、なにしろこのタイミングで出すか〜!、という宵山の話なのです。

読んでいると、鉾の名前と鉾町あたりの地名がいっぱいでてくるのです。

室町通を上ル、六角通りを西へ、蛸薬師下ル、御池を東へ、衣棚町(京都のひとは、ころもんたな、、と読むらしい)、地図に載っていない通り抜けの小径のひとつ了頓図子(りょうとんずし)まででてきちゃう。

(こうして書くと、京都の地名って雅びです。絶対に地名整理なんかしてほしくないです。)

そぞろ歩くのが好きな室町界隈なので、本の中に出てくる町や通りの名前をみては、頭の中の地図をたどるのもまた楽し。

キーになっている場所、室町三条といえば、素夢子古茶屋さんのあるあたりですねえ。

読んでいるだけであの駒形提灯やら、屏風祭の旧家やら、夜店にむらがる人々の姿が目に浮かび、雑踏のざわめき、祇園囃子、ちまきを売る子供たちの歌が聞こえてくるようです。


地名は実際京都に住んでいたら(あら、私はまだ住んでいなかったわcoldsweats01)ああ、あそこ、とすぐわかる慣れ親しんだ場所の名前がてんこもりなんですが、そこは森見ワールド、すでに別世界の京都になっております。

ところがそのつくりはさらに多層的で、パラレル京都の、さらにもうひとつ別のパラレルワールドが宵山の夜、出現するのです。


ひとつはあくまで楽しく、賑やかなおもちゃ箱をひっくりかえしたような世界。

もうひとつは「死」の匂いのする、ちょっとダークな異界。

これが象徴的にあらわれているのが実は表紙なんです。

これは私も読み終わるまで気づかなかったのですが、あくまで楽しくおとぎ話のような表紙の後ろに、もう一枚の表紙があって、それは、、、、

あとは実際に手にとってごらんくださいね。bleah

狂言回しのとても怪しい骨董屋、杵塚商会というのもでてくるんですが、これは「きつねのはなし」に出てきた同じく怪しい、かくりょ(幽界)と通ずる一乗寺の骨董屋と実はおなじ骨董屋なのかもしれません。


それにしても、こんな不思議な時空がほんとうに宵山のにぎわいのなかに、ひそかにしのびこむ、、ということがあってもおかしくない、と思えるのが京都特有の町の構造なんでしょうね。

近代的大通りを一本中に入ると、迷路みたいな小路やろうじがかくれていて、普段の時でさえ、あら、別の時空にまぎれこんでしまったのかしら?と軽い眩暈をおぼえることがありますもの。

考えてみれば、一ヶ月もかけて、町一番の大通りを占拠するお祭をするなんて、京都以外では考えられないのではないかしら。

夜は短し歩けよ乙女ファンの「あほうな大学生」が好きな方も堪能いただけますよ。ちょっとかぶって登場する人物もいますしね。

2009年6月11日 (木)

”苦労は身につけよ”

浅田次郎さんは好きな作家の一人なのですが、少し前から「週刊文○」に小説を連載中です。

老境に達した、新撰組最強の剣の使い手、斉藤一(はじめ)が近衛師団の士官に自分の半生を回顧して語る、というスタイルの
「一刀斎夢録」。

(斉藤一、NHKの大河「新撰組!」ではオダギリジョーさんがやってましたね。)

おもしろくて、週刊誌を手に入れたらまず読むのですが、今週号の中のセリフにちょっと心うたれて、かくありなん、と思うせりふがあり(この頃記憶力がぱ〜ぷ〜なので)、ここに記しておきます。

セリフは吉村貫一郎のもの。

そう、あの同じく浅田作品で、映画にもなった「壬生義士伝」(これも週刊文○連載だった)の主人公ですよ。こんなところにもでてくるのです。

乞食の如く落ちぶれた武家の少年兄弟を、新撰組にひきとって自分がめんどうを見る、と決めたときにまだ幼さの残る兄弟にいってきかせたせりふ。

「ただし、ひとつだけ約束せよ。苦労は男子の本懐だが、その苦労を決して看板にしてはならぬ。君たちの苦労はこの吉村がすべて承知したゆえ、二度と口にするな。苦労は口にしたとたん身につかずに水の泡となってしまう。身につけよ、よいな。」


苦労を看板にするな、身につけよ、、、いいせりふだなあ、、、、。

とかく自分はこんな苦労をしてきた、とかいいたくなるものだが、他人には関係ないことなのだ。

理解もされないだろう。おのれひとりがわかっていればよい。自分一人の宝とすればよい。

これは自分への戒めとしても、しっかり心に刻んでおこう。(ってすぐ忘れるんですけど、、、悲sad

(↓本文と関係ありません)

鶴屋八幡の上生菓子。

銘は、、、忘れました。gawk

露草をあしらった餡を調布(小麦粉の薄焼きみたいなもの)でくるんだお菓子です。

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2009年5月24日 (日)

「京の町家」〜数寄屋造り・中村昌生先生の講義

以前S&Y様のブログでご紹介されていたこの本。

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「町家」と「茶室」がキーワードになっているため、これは私のための本ぢゃないか!!と早速入手したのです。

実はその時まで、中村昌生先生のお名前を存じ上げていなかったのです。

ところが、その後、茶室・数寄屋の建築、町家の建築の本などに必ずといってよいほど出てくるお名前だと気がつきました。

知らぬとはいえ、とんだ失礼(?)。

京都工芸繊維大学の名誉教授で、日本の木造伝統建築の第一人者で、財団法人 京都伝統建築技術協会の理事さんでしたのね。

それはさておき、京町屋と数寄屋との関係が、私にはず〜っと疑問だったのです。

町家は独特の構造を持っていますが、中には茶室を基本とする数寄屋造り?と思えるようなものもあって、その境界はあるのかないのか、判然としなかった。

それを、この本はほとんど解決してくれたようなものです。建築の専門用語が、なんの説明も注釈もなく、次々とでてくるので、ちょっと往生しましたが。

結論として、京の町衆が洗練された生活の場として大切にしてきた座敷、その座敷飾りを考えたときに、最初に経験し得た座敷飾りが、書院造りのそれでなく、茶室の床飾りであった、、、ということらしい。

、、、「書院を建てようとするときは、茶の湯の座敷と共通の考え方でその構えを工夫するのが近道であったはずである。こうして町家の座敷は、数寄屋造りが基調とならざるを得なかったのであろう。

坪庭についても、茶庭である露地は巧みな動線の工夫によって深い奥行きを作り出し、山里の草庵を訪れる気分を醸すものであるが、この露地の手法は建て込んだ狭い敷地の中で、極力大きな自然を作り出そうとする町家の坪庭にとって、絶好の手法であった、、ということ。

ただ住むだけでなく、町家が洗練された生活空間であることを望むとき、茶室、数寄屋は限りなく理想的なお手本であったということですね。

だから、訪れて、良い雰囲気だな、と感じる町家は一種の数寄屋建築と考えて良いのかもしれない。

京都にそんな町家がたくさんあるのも、三千家があり、茶の湯文化と切っても切れない縁のある場所だから、ということになりましょうか。

町家を訪れると、門口から前庭にかけては打ち水がされ、玄関やみせの間には、衝立の前に花が生けられ、煙草盆がおかれている。奥の座敷へ通れば、床に掛け物と花が飾られ、正客の位置に煙草盆と座布団だけがおいてある。まことにもの少なな備えではあるが、客を迎える亭主の控えめで床しい気持ちが漲っている。そこには、鍛錬を積み重ねてきた生活を背景とする日本の座敷の持つ重みと、いい知れない魅力が漂うのである。そうした生活の作法や演出も、茶の湯の原理に導かれたものである。京の町家の暮らしぶりは、いかにも茶の湯を日常化した姿のように感じられてならない。」(抜粋)

さて、この本をよんでしばらくした、先日、淡交会青年部主催の「茶道教養講座」に、この中村先生が講義をされる、という情報を得まして、これはいかねばっ!!と。


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場所は梅田にある宝塚造形芸術大学。
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この日のテーマは茶室建築が、書院造りから草庵を経て、数寄屋造りになるまでの変遷。

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わび茶以前の茶室は、二条城などに残るりっぱできらびやかで威圧的な書院のものであったのを、わび茶の茶室は草庵、小座敷をよしとした。

草庵とは付属物をそぎ落とし、石の上に柱を建て、土壁をもちいた簡単な造りの茶室で、利休は究極の小座敷、一畳台目の待庵をこしらえた。

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ただ、その狭さは客を苦しめるもの、として利休の弟子、古田織部はもう少しゆとりのあるものを、ということで窓を多くもうけたり、鎖の間という基本的には書院の間に炉をきったり工夫をした。

例として、三畳台目+相伴席一畳の燕庵。草庵と書院の中間の印象。

数寄屋、という言葉がみられるのはこの織部のころからとも。

さらにその弟子、小堀遠州になると、鎖の間がさらにりっぱになり、立派な書院に草庵のシンボル台目構えの点前座をくっつけるなんてことも。

例として、蜜庵(みったん)や有名な大徳寺、弧蓬庵忘筌。

書院から始まった茶室が草庵を経て、また書院につながれるが、その中味は以前の武家の格式張った書院ではなく、日本の素材、技術を活用したくずした書院=数寄屋造りであり、それがすばらしく開花したのが桂離宮である。

、、、、と、茶室の歴史についての一大ページェントを見るがごときお話でした。

はあ〜、、、ため息。lovely

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茶室建築について少しだけ、物知りになった気分です。

講義の後は、先生を追いかけまして、しっかり「京の町家」にサインをいただきましたよ。(なんてミーハー)


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でも、先生は「この本は私の言いたいことを全部書いた良い本だと自分でも思うので、読んでくれる人がいるとうれしいなあ。でも、あんまり売れないんだよね。」と、おっしゃっていました。

専門用語が少し多すぎて、一般人にはむつかしいかも、と僭越ながら申し上げますと、「では、用語の解釈集をお送りしましょう。」と、言っていただきました。

あつかましいですが、お願いいたしました!happy01

2009年5月 1日 (金)

「茶の湯事件簿」火坂雅志

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実は5年前に買った本です。

茶道雑誌に連載されていたのをまとめた本。本棚を眺めていて、おや、こんな本もあったな〜と思い出して引っ張り出しました。

読み返すと、これがまたおもしろくて!

実は5年前、買ったばかりの時はそれほど歴史上の茶人についてあまり知識がなくて、古田織部と小堀遠州、村田珠光と武野紹鷗どっちが先で、どっちが後?、、、すらおぼろげだったのです。(恥ずかしながら)

まあ、それから5年、いろいろ本を読んだり、(「へうげもの」の漫画もたいへん勉強になりますcoldsweats01)それなりに学習して、知識もあるていど持って読み直すと、おもしろさがまったくちがいますね。

「事件簿」とありますが、茶道の歴史を知っている方にはどれも有名なエピソードがてんこもりで、それを活き活きと短編小説風に描写しているのです。

ここで火坂雅志って聞いたことがあるような、、、と思ったら、なんとNHK大河ドラマ「天・地・人」の原作者だったんですねえ。


ラインナップは、、、、

<安土・桃山時代>

松永弾正/織田信長/豊臣秀吉/千利休/山上宗二/織田有楽/ノ貫、、、などの有名どころから、この本で、ああ、こういう人だったんだ、と勉強させてもらった今井宗久や島井宗室。

宗二、ノ貫、有楽、みなさん「へうげもの」にも個性的キャラででていましたね〜。

(どうも読んでいると、イメージがあの漫画の顔になっていかんわ、、、)

中でも、忘れがたいのが荒木道薫。

彼は落城の際、妻子家来を見捨てて、茶道具を持って自分だけ落ち延び、大名を捨てその後の人生を茶人として生きた、という実際にエキセントリックな人生を歩んだ人でした。

<江戸前期>

徳川家康/天王寺屋津田宗及/古田織部(へうげもの)/金森宗和/小堀遠州/千宗旦

(江戸後期と近代以降はそれほど興味がないのと、ちょっとスケールがちいさくなるので割愛。)

一口に茶人といっても、その時代背景によっても、その信ずるところによっても実に多様な生き方があるのだなあ、と思いました。

織田信長に名物平蜘蛛釜を渡したくなくて、釜とともに爆死した松永弾正もある意味すがすがしい。

自分の意地を貫き通して、耳や鼻をそがれて殺された山上宗二も、その批判しかしない(いけずな)性格はともかく、これもひとつの見事な生き様だと思う。


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(大円草)

なかでも私がやっぱり好きだな、と思うのは利休の孫にあたる千宗旦。

利休賜死以後、秀吉の手前、世間的にも金銭的にも不遇でありながら、(「乞食宗旦」と呼ばれていた)、わび・さびを徹底的に追求し、独自の茶の世界を作り上げた人です。

唐物を捨て、和物中心の極わび茶の湯は彼から始まるとか。

祖父・利休の亡くなり方から、権力に近づきすぎることの怖さをよく知っていたのでしょう。生涯仕官することなく、名誉をもとめず、一生清貧の中ですごした。

茶事も十分なもてなしが経済的にできなかった事も理由でしょうが、軽い食事のみの「飯後の茶事」を好んだとか。

私も自分でするなら、この飯後の茶事を中心にしたいな、と思っています。

フル懐石もよいのですが、食事に気がいくと、どうしても席が散漫になってしまう気がするし、、、。

実は作者の火坂さんも、宗旦が大好きらしく、その思い入れもあるのか、宗旦の章がとてもひかっていました。

そして、印象的な宗旦の言葉、

「茶の湯は我が身の理を知りて分に相応するを本意とす。されども諸事十分ならぬがよし。」

「茶禅録」(from 柳宗悦)にいう、「侘」すなわちもの足らざる様。足らざるに足るを知ることが数寄のこころである。

身の丈におうた茶を。心に刻みつけたい言葉です。


    *    *    *


「茶の湯事件簿」:

茶の湯が歴史的にどういう意味を持ち、どのように変遷していったのか、簡単に頭に入れるにはうってつけの本です。


そして、茶道をされる方々、あなたはどの茶人タイプでしょうか?、、、など考えながら読むのもおもしろいと思いますよ。


2009年2月20日 (金)

「茶道を深める」〜心理学者と茶道との出会い〜

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少し前に購入した本ですが、何回読み返してもお茶を学ぶ者として、納得させられること、なるほどなあと思わせるところ考えさせられるところ満載な本です。

しかも文章が平明なので(久松真一先生・比
coldsweats01)どこからでも読めます。

茶道雑誌の「淡交」に「茶道心講」として連載されていたものをまとめた本なので、一度は読んだことがあるはずですが、まとまって読むとまた理解しやすい。

一体どんな作者なのかしら、きっと白髪の上品な高齢のお茶人さんだわ、、と想像していたら、あにはからんや、なんとほぼ同い年のかたではありませんか!

岡本浩一さん、東大卒の「リスク心理学」のエキスパートで、文科省関連団体でリーダーシップをとられ今なお様々な国の委員会のメンバーかつ大学教授とか。

裏千家淡交会終身師範であるだけでなく、なんと将棋連盟免許4段、英語は母国語並みにしゃべれてフランス語の文献は読むのに支障なし、、、とは、どこまでも神様に愛され、きらびやかな才能にめぐまれたお方なんです。はあ〜〜〜happy02ただただ感心するしかない。

この本にはいままで参席した、あるいはご自分が主催した茶会や茶事などで感動を味わったこと、心に残る数々のことなど多岐にわたって書かれていて、なるほど、こういう茶事もありなんだ、こういうところは取り入れたい、茶人の心構えとはこうなのか、、、などなど具体的な話がなかなかおもしろいのです。

茶席で亭主が出ると、水屋の半東は、襖越しに柄杓が蓋置きにのるかすかな音に耳を澄ませ、点前が始まったことを知り、ほかの間合いを考える。

その間、水屋は絶対の沈黙となる。

茶事の連帯を感じるときである、、、、、、学生時代、心茶会の錬成茶会で水屋総指揮をやったときのことなど懐かしく思い出させてくれる一節もあります。

さて、この本の中に、とくに繰り返し、繰り返し、装いをかえてでてくるテーマがあります。

、、、くつろぎとゆとりというものが、実は鍛錬のあとにもたらされるものであること、、、(中略)、、、、

草の点前を見ているだけでも、亭主に行台子や真台子の鍛錬があるかどうかの見当がつくのは、そういう人の草点前にはどことなく飄々とした空気がそなわっているからである。

草の点前しか知らない人の草点前にくつろぎのあるはずがない。

また別のところで

、、、茶道でも、台子以上の古格の点前は「奥秘」であり、人前で行うことはほとんどない。

ところが、通常の草の点前に茶の湯らしい品や雰囲気が出てくるのは、この奥伝の点前がきちんとできるようになるころからである。

陰に隠れてる奥伝の点前が、外から見える草の点前の間合いや呼吸を形作っている。

奥伝の点前を正しく学んだ人は、奥伝未習の人と点前の質が異なるのである。

え?そんなに違いがありますか?

奥伝は習ってはいるけれど、そ、、、そんなにまじめに(筆者いわく、奥伝の稽古の前には3日前から酒を断ち、おさらいし、問題点を整理してのぞむ、、、らしい)やっているわけではないので、coldsweats01、やっぱりだめですかね、私。

草の点前は草の点前で、風格があるとは思ってもらえないかも、、、。

でも、なぜそういう差が出るのか、を考察した章では、うなづけるところもあります。

、、、、台子点前の手続きは、丸暗記で覚えられる限界を越えている。そのために茶道の中にあるロジックセンスを深く考え、それが自分の情動と軌を一になるほどに内面化しなければ覚えられないのである。

、、、、、、、(中略)、、、、なにかの拍子に少しずつそのロジックの断片が見えるようになり、台子点前というものの奥に伏在する論理の相が少しずつ心に染み入るようになってきた。

言語では表明しにくいが、包括的で確固としたロジックである。、、、、、(中略)、、、、

その課程で「たくさん点前がある」とたんに多彩なだけだった小習いの点前の印象が、ゆるやかな連携をもったひとつの総体に見えてくるようになる。

煩雑に見える点前の所作も一つ一つの意味がわかると、なるほど、とぴたっと腑に落ちることは、不肖このわたくしでも何度かあります。

これ以外にはないやろう、という所作もあります。

一度台子のお稽古で、理屈からいけばどうにも納得できかねる点があって、先生にしつこく聞いていたら、やはり
わたしの考えの方が正しい、といわれ、やっぱり、、と思ったことも。

それをこの本では「ロジックセンス」と書かれていて、そうか、この言葉なんだ、私が言い表したかったのは、、、と膝をうったものでした。

偉そうに書いてますが、己の未熟さは十分わかっていますので、発展途上ということでお許しを。

いつの日か、かろかろと草の点前をして、品格と雰囲気をかもせるようになりたい、という目標ができました。

まあ、一生たどりつけない可能性もあるけどね。
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この本は茶道の初心者にも、練達の方にもおすすめです。たんなる花嫁修業とかでなく、茶道を学ぶ意味をきちっと考えてお稽古する人が増えればいいな、と思いつつ。


最後に前書きからの言葉を、、、


、、、、、茶道の稽古や知識や経験が、個人のなかで他の経験から遊離した存在でなく、その人の「生」そのものに深く結びついていて、それが、席主、客、水屋などそれぞれの立場の奥にふと垣間見えたとき、茶道の深さが心を打つという小さな奇跡が起こるもののようである。

「茶道が深まる」という現象は、点前の技能や知識が、その人の職業生活や人生観や価値観と心の奥底で結びついていくときに蓄えられるのである。

古来、茶湯を心の友、心の支えとして、自分の持ち場で「生」を生き抜いた人は多い。

それが私たち、市井の茶湯者につながる系譜であろう。

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「茶道を深める」   岡本浩一・著  淡交社・刊