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2011年12月18日 (日)

一畳台目の茶事〜壺中日月長

いつものお稽古場に隣接して、先生のお宅には今日庵写しの一畳台目向切・向板の小間があります。

この年末のお忙しい時期に、4日間、ここで茶事をしてくださるとのこと。
懐石は先生の手作り、けれど裏方に徹されて、あくまで亭主・半東は社中の方々が日替わりでつとめられます。

この日の連客は全部で三人という理想的な人数、不肖わたくし、お詰をさせていただきました。


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待合いの火鉢。
折からの寒波で、木造の建物の中はひんやりつめたく、この熾った火はなによりのごちそうです。


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露地の腰掛け待合いに枝をさしかける紅葉。

席入り。

一畳台目という狭さのなかで、どのように軸、釜を拝見するのか、その動線は三人の息が合ってないと混線してしまいます。
亭主と正客がそのまままっすぐお辞儀をすると、頭がこっつんこするので、少し体をずらします。

そとは寒い木枯らしですが、一畳台目は釜がかかっているだけで、とてもあたたかく、居心地の良い空間です。
客三人と亭主で直心の交わりをするとしたら、うってつけの広でしょう。
(夏場は若干暑苦しいかも)
ここで寒い冬の夜、夜咄の茶事なぞしたら、身も心も温まりそうです。

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懐石はアツアツでしかも生姜や柚子など、体が温まる食べ物で、先生の心づくしに感謝しつついただく。

中立後は濃茶、後炭、薄茶。

今年六月、拾翠亭で、お仲間とさせていただいたチャリティ茶会のときに、使わせていただいた宇治田原、かねまたさんの抹茶が、あまりにおいしかったので、今回再登場。

この「宇治みどり」、ほんとうに苦みというものが全くない、すごいお茶です。


薄茶をいただいた沓形の古い黒織部は、お茶を飲みきったあともしばらくは、ほかほかと手の中で湯気を上げていました。
薄暗い茶室でこんな風情はすばらしいご馳走であります。


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入ってまだ1年もたたない京都でのお社中ですが、先生にも先輩方(私の方が歳は上ですが)にも恵まれ、篤く感謝です。

帰り道は寒風の中、白川沿いの道を歩いて帰りました。
桜はもうつぼみをつけているようです


今日のお軸は「壺中日月長」。
出典は後漢書。

狭い壺のなかに、宏大な仙郷がある。


深読みをすると、、、、
狭い壺とは、自分をとりまく人間関係であり、自分の知識の範囲であり、日常生活であり。
そここそが仙郷=なにものにもとらわれず、融通無碍な心のはたらきをすることができる場所である。

つまり、日々の暮らしの中にこそある真理に気づけということか。

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茶席にはよく禅語の軸がかかります。
知らない言葉はいつも調べるようにしているのですが、そうしているうちに、(あくまで私個人の解釈ですが)禅語の多くが異口同音にこれと同じ事をいっているのではないかと思うようになりました。


「処々全真」すべての場所に真理が存在する。
「明歴々露堂々」真理はすべて目の前にあるではないか。
「平常心是道場」平々凡々たる日常のなかにこそ、真理はある。
「正法眼蔵」目に映る物すべてが仏法の真髄である。
、、、、、などなど。

真理はどこか高くて遠いところにあるのではない。
日々の暮らしを、自分の持ち場をしっかり守って生きていく。
「柳緑花紅」、季節がめぐれば、当たり前のように咲く花も、その当たり前さが尊いと思い生きていく。
それでこそ「日々是好日」、辛い日も悲しい日も今日が最高の日であるとうけとめて生きていく。

そういうことなのでしょうか。
少なくとも今の私はそう解釈して、簡単なようで到達し得ない境地ではありますが、少しでもそうなるべく日々を生きていきたいと思います。


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お茶事、壺中日月長からずいぶん話がとんでしまいましたが、こういうことを考えさせてくれるのも、茶の道に足をつっこんだ者の冥利だと思えば、つくづく茶の湯との出会いに感謝です。

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コメント

とても素晴らしいお茶事ですね。こちらまでホカホカします。

禅語の軸ですが 実は私も同じ内容?ではないかと思っている一人です。
そして軸を拝見する度にその言葉に支えられている自分がいます。
私もお茶に出会ってよかったと思います。
ゆっくりお茶を楽しみたいと思います。

ひいらぎ様

一生禅で言う大悟はできないにせよ、色々な禅語にふれるたびに、なんとなく禅の教えというものがどういうものなのか、うすぼんやりわかってきたような気がします。
禅の修行をしなくとも、墨蹟から人生の真理などというものを垣間見ることができる、とはありがたいことです。
これも茶の湯をやっていればこそ得られた機会ですものね。

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