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2010年9月 3日 (金)

茶箱のお稽古〜「洛中の露〜金森宗和覚え書」

暑いです。think

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玄関にこの季節初めて萩を生けてみました。
ふつうならそろそろ花が咲いているのですが、ごらんのようにつぼみのままです。

あんまり暑いので、とうてい単衣を着る勇気がでません。
お稽古はやっぱり夏着物でいっちゃいました。

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麻の帯もやはり夏だけなんでしょうか?
単衣の季節にも紬なんかには締めてよいものでしょうか?
まあ、文句を言う人もいないだろうと、春に京都の素心庵でkimono gallary晏の展示会でもとめた紅型帯を、おろしてみました。
(真夏は着物にどうしても手が伸びなかったのよ〜)


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先生のところのお花。
水引草のつぼみもまだなんだか堅そうですね。


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お菓子はまだ寒天系。「夜半の月」。
来週はもう重陽(9月9日)だというのに、とても菊をもちだせる気候じゃございません。

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茶箱の「雪」をされるお弟子さん。
私は「月」をさせていただきました。

あれほど複雑にみえた月点前ですが、なんだか今年は意外と軽々できたことに我ながら感心。
これこそ真の点前までいった貫禄というものよ、、、むっふっふhappy02というのはうそ!です。
何回もやってりゃねえ。なにごとも繰り返し復習が大事、ということでしょう。

それにしても器据のうえにずらっと道具を並べる月点前はほんとに優雅。

来週はいよいよ、自分の御所籠をもちこんで、色紙点前を習うんだ!うへへhappy01

さて、最近読んだ茶道関係の本のご紹介も。


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金森宗和といえば「きれいさび」「姫宗和」というのがキーワードの安土桃山〜江戸初期の茶人で、野々村仁清を庇護したことでも有名ですね。
でもなんといっても特異なのはその出自。
もともと飛騨高山藩主・金森可重の嫡男でありながら、廃嫡となり、京で茶三昧の生活を送ったそう。

その廃嫡の理由はいまでも謎につつまれているとか。
一節には大阪冬の陣での出陣をめぐって父と激しく対立した、といわれるが、この本では金森家を守るために、徳川のご時世、豊臣との縁の深かった宗和が自ら身をひいた、ということになっている。

これは真田信幸・幸村兄弟(どちらが生き残っても真田の家が残せるよう、一方は豊臣、一方は徳川についたといわれる)みたいに、あの混沌とした時代にはありそうな話で、こちらの方が納得できる理由だなあ。

このように、宗和は茶人として名を残したが、あの激動の時代=大阪冬の陣、夏の陣洛中に露と消えていった名も無き茶に関わった者も多かったと思われる。そんな人々の生き様を宗和を狂言回しとして描いたのが本作。

言葉遣いもむつかしく(歴史的な今はだれもしらないような言葉多数)さらっとは読めないのですが、何度もいろんな本でおめにかかった当時の有名な茶人や、武将の名前もたくさんでてくるので、興味を持って最後まで読めました。
そういう人物たちの相関図が、初めて知ることもあり、なかなか楽しかった。

「へうげもの」古田織部もりっぱな悪役(!)として最後の方に登場!
織田信長の弟で、茶人として名をのこした有楽斎の世渡りのあまりに上手なこともよくわかったし、信長の子ども達って豊臣の時代になると影がうすすぎて、どういう運命をたどったのかさえ、しらなかったのですが、それもこの本で学習できましたわ。

何編かあるうちで一番印象に残ったのは「弥助」というエピソード。

弥助は信長に従っていたアフリカ出身の黒人で、本能寺の変で明智軍に捕縛されたが、光秀の命令により解放されたといわれるが、以後の消息は一切不明とのこと。(「へうげもの」にも登場していましたね)

信長は名物茶道具をたくさん所持していたことでも有名ですが、そのなかのひとつ、瀬戸黒(本書では引出黒)の茶碗にまつわるエピソード。
後日おむく斎とよばれるようになった信長の従者と、いわば奴隷身分でありその容姿ゆえに辛い思いをしてきた弥助との交流をえがいている。

おむく斎が、弥助の面倒をみはじめたことから、彼の辛い数奇な人生をしり、彼の人となりを知り、心通わせるようになるふたり。
彼を獣扱いにする武将に「あれなるは人でございます。」と訴えるおむく斎。

本能寺の変で捕らえられ、光秀に「獣を切っては人に笑われる」と解き放たれたにもかかわらず、「わしは人じゃ。」と誇りをすてなかった弥助。

光秀は信長所有だった茶道具からこの瀬戸黒をさしだし、「路銀の足しにせよ。」と、ふたりを逃がす。

時は流れこの茶碗は幾多の手をへて、道安(利休の長男)、その弟子であった宗和の父、そして廃嫡された息子=宗和への餞別となり、彼の手元にある。

ひょんなことから、このおむく斎を茶会に招いた宗和はその瀬戸黒をだす。
この茶碗を手にしたおむく斎がその弥助とのエピソードを語り始める、、、という形をとっている。

そして最後、瀬戸黒を指でなでながら、発されたおむく斎の言葉。

「艶やかな黒でござろうが。やつがれ僭越ながら、ただいま銘もつけもうした。」
「弥助、と申す。末永う可愛がっていただけば、泉下の弥助もうかばれましょう。」

時代を越え、所有者をかえ生き延びる。
茶道具であればこそありえるシチュエーション。

その瀬戸黒が目に浮かぶような名シーンだと思いました。


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コメント

先日知人から「宗旦伝授聞書」という冊子をいただきました
全部で217条からなる宗旦の言行録
誰が書き留めていたのかわからない
解説は一切ない

内訳は
 茶を弄ふ事         87条
 数寄者に品々有事      29条
 手前好と嫌との事      29条
 数寄と云ふ品々ある事     1条
 時節により茶の湯心持ち替る事 2条
 心得の事          10条
 勝手に嗜むべき道具の事    1条
 道具取組組合心持ちの事    3条
 膳部の事          55条

この中には
「茶の湯成りかたしと云に非ず、誰もする事也、能する事の成難しとぞ」(6条)
「愚者千人に讃られんより、数寄者一人に笑はれん事を恥ずべし」
(43条)
など耳のいたいことが書かれています
このようなものを読んでいますと、茶の湯の真髄とは
生き方について考える事と思い至ります。
宗和さんは
「へつらわずつくらず、心一筋に強き一篇なるを、直ぐなる茶の湯と云ぞ」(96条)
を実践されたのですね。

野中の清水様

「江岑夏書」などが下敷きになっているものなのでしょうか。
切れ切れには読んでも、全部を読んだことはありませんが。

(しろうとにもわかる解説付き)「禅語」の本を読んでいて、禅により近い生き方をしたのは利休さんではなく、宗旦さんのほうだなあ、、と思いました。
それぞれに時代も状況も違いますので、どちらがいい、ということではありませんが、茶の総合芸術としての心得は利休に、その心構えは宗旦に学びたいものです。

宗和さんは謎が多く、その性格も毀誉褒貶があるようです。

宗和さんの子孫の事は知りませんが、金森本家は福井県武生におられます。
昭和53年9月にお訪ねしたことがあり、おそばを御馳走になりました。
いろいろと史料がありましたが、お茶関係は記憶にありません。

公家に近づき、道具類の仲介などをされていたのでしょう。アートディレクターかなあ。
公家を相手につきあう時の駆け引きは武家相手の比ではない
その性格に毀誉褒貶があるというのは、まさにほめ言葉
「真善美」においてぐらつくと公家社会にからめとられ尊重されない。
「へつらわずつくらず、心一筋に強き一篇」
こんな人であると僕は考えています

野中の清水様

なるほど。
京のお公家さんって、確かにしたたか、というか表面みやびで実は腹黒、というイメージですものね。
そんなお公家さん相手に地位を築き、廃嫡という目にあいながら、歴史に名前を残せた、というのはやはりただものではなかったのでしょう。

そうですか、金森家の御子孫はご健在なのですね。
それも古筆関係でしょうか。

しぇる様

金森家は飛騨高山を本拠とする大名でしたが、
その後没落し、最後は福井県武生地方に領地をもつ
交代寄合(参勤交代する高位の旗本のこと)でした
私がお会いしたときには個人事業のかたわら、
武生市の市会議員などをしておられました
その当時、私は地主制度に興味がありましたので
その資料調査に御伺いしました

私は古筆歴が10年の経験もないかわいい坊やなのです

野中の清水様

かわいい坊やにしては、そら恐ろしいコレクションですよね。coldsweats01

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