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2009年8月 5日 (水)

「この世界の片隅に」〜こうの史代・作

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8月、、、というと6日の広島、9日の長崎、15日の終戦記念日、ある程度以上の年齢の人なら戦争のイメージをもっているのではないでしょうか。

私はもちろん戦後の生まれではありますが、物心ついた頃に、まわりには戦争のことを語る大人はまだ多くいました。

いまでは戦争の語り部も少なくなり、残念ながら若い世代には遠い夢の国の話に風化しつつあります。

こうの史代さんを知ったのは2年前夕凪の街・桜の国という、戦後10年たった広島、最後には原爆症でこの世を去る娘と、さらに現代に生きるその姪のことを描いた作品を読んでからです。

とてもいい作品で、映画にもなったそうですが、決して原爆の物理的な悲惨さを声高に語った物ではありません。

被爆していつ発症するかわからない原爆症の恐怖をかかえながらも、全く肩に力を入れないで自然体に、少しとぼけたような日々を送る主人公の日常をていねいに綴っているだけなのです。

だからよけいに、彼女の死を暗示するラストが、原爆が人類になにをしたのか、、、を問いかけてくるような気がするのです。

そしてこうのさんの新しい作品、「この世界の片隅に」、これもまたとてもしみじみ心にしみてくる良い作品でした。

昭和9年から終戦の20年の年の暮れまで、主人公すずの広島での子供時代から、呉へ嫁いで北條すずとなってから、、、昭和の暮らしがていねいに描かれています。

こうのさんの描く女の子はとてもかわいくて、特に小さなおかっぱ頭の女の子が照れて笑っている姿はもう、抱きしめたくなるくらいいとしいのです。

すずは絵を描くのが好きで、どこかとぼけた娘で、今の言葉で言うといわゆる「天然(ぼけ)」でしょうか。

呉に住む夫となる北條周作さんとの子供時代の出会いはじつはとてもシュール、、、かつラストの伏線にもなっています。(まあ、これはネタバレになるので読んでね)

周作さんに望まれて、若くして嫁に来たすずは義父母、叔父叔母、そして近所の人たちに温かく迎えられます。

ちょっととぼけてて、たよりなく不器用なところがほおっておけないのでしょうか。


時代は戦争へとつきすすみ、呉は空襲爆撃をうけるようになります。

毎夜防空壕に逃げ込んだり、町にがれきや死体が転がる状況下においてもなお、すずはユーモアやおもいやりを忘れず、自然体で生きていきます。

食糧難で道ばたの雑草を使った楠公飯という超!まず〜い代用食の作り方や、落ち葉を焦がしてこねて作る代用炭団(たどん)の作り方や、着物からもんぺを作る作り方。こんなことまで描かれています。

これは生きた戦争中の昭和文化史にもなっています。

(作者はもちろん若い方ですので、お年寄りから聞いた話で描かれているのですが、もしまちがったことを描いていたら訂正してください、というコメントをつけてはります。)


さて、いつしか北條の家で自然に家族の一員になったすずですが、ただ一人、出戻りの義姉さんだけはちょっと意地悪。
でも私は全編をとおして、この義姉さんとすずの関係が変わっていくところがとても好きです。

嫁いで若くして夫に先立たれ、跡継ぎの息子は婚家にとられ、幼い娘の晴美をつれて帰ってきた義姉さん、すずのぼ〜っとした垢抜けないところが気に入りません。

ある日、「お母ちゃんの具合が心配で周作の結婚をせかしたけれど、わたしがずっとおりゃ嫁なんぞまだいらんかったんよね。、、、すずさん、あんた広島へ帰ったら?」

と暗に離縁をほのめかして義姉さんは夕食時にみんなの前で言います。

すずは天然(?)ですから、「ええんですか?(里帰りしても)」と逆によろこぶ勘違い。

ところが義父母までが「ほんまじゃ、気がつかんでわるかったのう。径子(義姉)も言うとるし、2,3日ゆっくりしてくりゃええよ。」と勘違い。

それだけ、すずはもう北條の人間になりきっていたのですね。「ありがとうございます!!おねえさん」と逆に感謝され「そ、、そりゃよかった、、、」と言うしかない義姉さん。悪い人じゃないのですよ。でもその顔がおかしくて。

それにしても里帰りしてうたたねをし、目覚めて「あせったあ、、呉へお嫁に行った夢見とったわ!」と、ぼけるあたりさすがすずです。母親にほっぺたつねられてましたけどcoldsweats01

戦況が悪くなる中、口ではきついことを言ったりしつつも、義姉さんはすずをなにかとかまってくれます。
義姉の娘、幼い晴美ちゃんは、すずによく遊んでもらいすっかりなついています。

ところがある日、投下された時限爆弾の炸裂が、すずの絵を描くのが大好きだった右手と、その手をしっかり握っていた晴美ちゃんの命を奪ってしまうのです。

「あんたがついておりながら、、、人殺し!晴美を返して!」

傷を負ったすずに義姉さんは、つめよりますが、心では決してすずを恨んではいないのです。どこにもぶつける場所のない思いを叫ぶことで少しでも紛らそうとする、せつない場面です。

広島から、すずを見舞いに来た妹は「家のことができんかったら、北條の家におりづらいじゃろう。広島にかえっておいでや。」といいます。

晴美を死なせてしまったこと、周作さんが結婚前につきあっていたらしい赤線(わからない若い人はしらべてね)の女性りんさん(すずはこのりんさんとも友達になっているのですが)のことで周作さんとのあいだにできた小さなわだかまり、たびかさなる爆撃、、、、耐えきれず心が弱くなったすずは、実家の広島にかえることを決意します。

たとえ「すずさん、わしは楽しかったで。この1年、あんたのおる家へ帰れて。あんたと連ろうて歩くんも、たらたら喋るんも嬉しかったで。あんたは違うんか。」と周作さんに言われても。

その運命の8月6日の朝。片手で不自由そうに荷物をまとめるすずに、口ではきついことをいいながら、自分で縫った、片手でも着られるもんぺを渡す義姉さん。

そしてすずの髪を梳いてやりながら、、、

「こないだは悪かった。晴美が死んだんをあんたのせいにしたりして。」

「周りの言いなりに知らん家へ嫁に来て、言いなりに働いて、あんたの人生はさぞやつまらんじゃろう思うわ。
じゃけえ いつでも往にゃええ思うとった。ここがイヤになったならばね。」

「ただ言うとく。わたしはあんたの世話や家事くらいどうもない。むしろ気が紛れてええ。失くしたもんをあれこれ考えんですむ。」


「すずさんがイヤんならん限りすずさんの居場所はここじゃ。くだらん気兼ねなぞせんと自分で決め。」

そしてすずは、、、「やっぱりここへ居らしてもらえますか」

腕にすがりつくすずに、義姉さんは「わかったから、離れ!暑苦しい」と口は相変わらず悪いですが、うれし涙です。


その時、、、、、、、、

「、、、?、、、なんかいま光ったね?」


、、、、、、、はるか広島の空で炸裂した原爆の閃光が呉にも届いたのでした。

そして終戦。

広島の実家のすずの母は爆心地で亡くなり、母を探しに行った父は数ヶ月後に原爆症でなくなり、妹は親戚のうちでふせっていました。腕には出血斑がつぎつぎと。彼女はすでに重い原爆症を発症していたのです。

「すずちゃん、うち治るかねえ、、、」

「治るよ、治らんとおかしいよ、、、」

これもせつない場面です。

妹を見舞うことが出来たすずと、迎えにきた周作さんは、家に帰る前に小さな原爆孤児の女の子にであいます。

「あんた、よう広島で生きとってくれんさったね。」

二人はこの子を呉へ連れて帰ります。北條の家族はなにも訳など聞きません。すんなり事態を受け入れます。

そして、最後の一こま。

義父母は「とりあえず風呂かのう。」「ものすごいシラミじゃ。大鍋に湯う沸かし!着とるものみな煮るで。」

叔父叔母は「明日米軍へ連れて行き。DDT(わからない人は調べてね)をまぶして貰うたらええわ。」

そして今は亡き娘の遺した洋服を引っ張り出して「晴美の服じゃ小まいかねえ、、、」と早速思案する義姉さん。

家族がまだ家族でありえた時代のお話。


自己中心的な人が次々おこす事件、家族は求心力を失い、地域では他人のことにお互い無関心。
当座は戦争の心配もなく、物も豊かにあふれている今という時代が、決して幸せな時代ではないことをあらためて思います。

やわらかい、私には近しい広島弁(私は岡山弁speaker)、こうのさんのやさしく暖かい絵、この家族の暖かさにいやされながらも、悲しみを感じるのはその背景に色濃く陰をおとす戦争のせいなのでしょう。

決して声高に戦争の悲惨さを訴えてはいません。でも確かに反戦の思いを心に種まく作品だと思います。

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コメント

ちょっとジーンてきますね。

わたしは声高に悲惨さをアピールする類が苦手ですが、しぇるさんご推薦のこの本、、、自然体でいいです。マイナスの力だけでは人の心はつかめないですよね。
でも結局泣けちゃいましたけど。

ちょっと読んでみたいです。

読んでみたいと言えば、前回紹介されていた人も気になります。

気になるといえば、赤線が分かるのはやっぱり若くないってことでしょうか。

こんにちは、しぇる様

私も先日、「夕凪の街・桜の国」とこちらをあわせて読みました。
読み終わり、涙と共に、心にしんとくる思いです。

>反戦の思いを心に種まく作品
という表現、本当にそうだと感じました。

私の心の種は、この時期に必ず読み直す本と父方祖母の話でしょうか。
祖母は曾祖父が海軍の関係者で各地を転々とし、呉にも一時期おりました。
当時の空襲の話や艦砲射撃の話を聞きました。
読み直す本は「ガラスのうさぎ」という本です。
こちらは東京大空襲が書かれています。
もし、ご機会がございましたら。

ちなみに、赤線もDDTも知ってます(笑)。あれ(笑)?
岡山弁は広島弁と近いのですね。
甥っ子達とこの前、旅行中沢山話をしていたら、語尾に“~じゃ”や“~せられ”など、しっかり岡山弁に(笑)。
何より、「傘にのる」は吃驚しました。

本は読んでませんが、この映画『夕凪の街・桜の国』はみました。
普通の人々の暮らしを一瞬に奪い去った原爆の悲惨さがよく描かれていたと想います。
4月に広島を訪ねた時、あの川のほとりのすばらしい桜並木道を散歩しました。

ちょきた様

何歳から赤線、DDTがなんのことかわからないのか一度調査してみたいものですねcoldsweats01
ちょきた様もたくさん本をお読みですが、読書プランに是非これもくわえていただき、お読み下さいませ〜。
戦争への思いだけでなく、漫画としてもとても秀逸だと思います。なにより絵がかわいいし。

いけこ様

いけこ様も赤線、DDTがおわかりに〜happy02同世代やあ〜、、、っていうのは冗談です。

「ガラスのうさぎ」、あれも良い本でしたね。子供が小学生のときに課題図書であったので、一緒に読みました。あれをこの時期に読み返す、、、やはり、いけこ様、息子のヨメに、、(ジョーク、ジョークcoldsweats01)いや、お若いのにおえらいです。なにより、お小さい頃から戦争の話をしてくれる大人がまわりにおられた、ということは貴重です。

私が子供の頃は、戦争体験を話してくれる大人はまわりに一杯いましたし、原爆の日の式典の規模は昨今の比ではありませんでした。少年漫画ですら戦争のことを扱っていました。ついこのあいだのことのように。(ちばてつやの「紫電改のタカ」はさすがにご存じないでしょう?)
子供たちにも原爆の話や、沖縄戦の話をまたぎきながら聞かせたものですが、反戦教育としては少し不十分だったかなあ。
でもそのまた子供に伝えることはできるのかはなはだこころもとないです。
そういうときに、こうのさんの一連の本はきっと若い人の心に響くものがあるとおもいます。

「傘にのる」、、、あ〜〜〜〜何十年ぶりかに思い出した!なつかし〜!そうそう、よく言ってたわ。「雨じゃけえ、私の傘にのっていきんさい」って!

ヘルブラウ様

そういえば、ヘル様は今年広島までおでましでしたね。
小学生のころ原爆ドームを見て衝撃を受けて以来、広島にはもう長いこといっていません。
映画は私も気になりつつ、あの原作のほんわかとした雰囲気がちゃんと再現されているのかちょっと心配で、いまだに見ておりません。でも主演の麻生久美子さんは好きな女優さんだし、皆実のイメージにはあっているなあ、、と思います。いつかきっとDVDで見ると思いますわ。

私はもちろん戦後生まれですが、父親をはじめ叔父全員が戦争経験者です。特に父親とその叔父は海軍飛行予科練習生、通称予科練の職業軍人だったので、聞く話の生々しさは想像を絶します。
特に大正生まれの叔父は、南方のラバウルまで転戦し、マリアナ沖海戦で母艦である空母瑞鶴を撃沈され、不時着水を余儀なくされたそうです。自らも貫通銃創を受け負傷兵として帰還しましたが、予科練の同期の8割が戦死したと云います。戦後は軍港を見下ろせる横須賀の丘の上に住み、戦友の供養をしていました。
酒を飲むと軍歌を歌い海軍用語を連発していましたが、実際の戦場の話はほとんどしませんでした。記憶が悲惨であればあるほど思い出したくないようです。
その影響か就寝するときにも明かりを消しませんでした。真っ暗な部屋はアメリカの潜水艦に脅える輸送艦の船内を思い出すそうです。
その叔父も昨年末に他界しました。遺骨の一部は遺言により、多くの戦友が眠るマリアナのサイパン沖に散骨しました。
何故か新人類と呼ばれた私が、叔父や父親の影響ですべて暗証している「海ゆかば」を船上で歌って戦友の方々の弔いとしました。

♪海ゆかば水ゆく屍、陸ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ…

へちかん様

戦争の悲惨な体験をされた方は、話すとつらくなるから、とむしろ一切口をつぐんでしまうことが多いと聞きます。体験が悲惨であればあるほど語りたくない、というお気持ちはわかるような気がします。
それでも、風化する一方の戦争の記憶を忘れないため、晩年になってやっと語り始めた戦争体験者のことをあつかったTV番組も見ました。どうしても伝えておかなければ、という気持ちで重い口を開いて下さったのでしょう。
私の父はぎりぎり徴兵される前に終戦を迎え、兵隊にいっていません。亡くなった義父はフィリピン戦線を戦った人でしたが、お酒を飲むたびに戦争の話を、同じ話をなんども繰り返すので、子も孫もまた始まった、耳にタコ、といってまじめに聞かなかったことをいまさらながら反省しております。
戦争を知らない世代でありながら、どうも「海ゆかば」は、若者を戦場に駆り立てた歌、、、のような気がして、聞くたびに胸がつまります。軍人さんはまた違う思いがあるのでしょうね。

戦争の惨さ、悲惨さ、辛さを忘れてはいけませんね。
自分も戦後生まれですが。まだ子供の頃には先大戦の名残が
点在していたように思えます。そんな戦争を憎み、慈しむ心
を忘れないようにしたいと思うのです。

ご存知だとは思いますが「海ゆかば」は、万葉集にある大伴家持の歌から取ったものです。
戦時中は大本営陸海軍部のラジオ放送の際に、玉砕発表の前に必ず流された曲だそうです。祖父母はこの曲を聴くと「日本は負ける…」と感じたそうです。確かにメロディラインはきれいですが、とても悲しい曲調です…。
私の父はちょっと変わっていて、子供の頃、軍艦や戦闘機、戦車などのプラモデルを買ってきてよく私に作らせました。究極は爆撃機B-29でした。
世界で始めてキャビンに与圧装置(酸素マスクのいらない)が装備された高々度爆撃機で、日本の戦闘機が追いつけない速度で飛びました。父は終戦間近、本土空襲に飛来するこのB-29を迎撃する任務についていました。
父はよく「日本人にとって悪魔の爆撃機であるB-29こそ、いまの旅客機のすべての原型だ、我々が快適な空の旅を送れるのも、その技術があってこそ…実に皮肉なものだ。人間は科学技術を神にも悪魔にも作り変えることができる」と言っていました。いま世界の空を飛ぶ旅客機の約半分がB-29を製造したボーイング社の飛行機です。
小学生の頃、ある若い女性教師が「戦争おもちゃは買うのも作るのも禁止」と生徒に言いました。父は激怒し、ゼロ戦とグラマンのプラモデルを持って学校に行き「あなたはこの大きさの差が分りますか?。千馬力のエンジンで二千馬力の米軍機に挑む悲惨さを伝えるためには、子供には視覚で見せ、聞かせることが大切です」と力説しました。いつもは争いごとを好まぬ父の行動に驚いたことがあります。

nageire様

こちらのブログまでおいでいただき恐縮です。
nageire様の万人が美しいと思うお写真のブログと比べると、おはずかしいです。
この日の記事はつい気合いが入りすぎて、長すぎましたね。読みにくかったことと思います。
戦争を憎み、人を慈しむ、、、、お花の写真をみていると、それを実践されているにちがいない、と思います。
庭の花、雑草もふくめて、自分なりに活けています。足元にもおよびませんが、お手本にさせていただきますね。

へちかん様

すばらしいお父上をおもちです。戦争中から、その後の世界をすでに見据えておられたのですね。
戦争中のどう考えてもおかしい、大本営発表をどのくらいの人が本気で信じて、どのくらいの人が疑っていたのか、、、これは実際の体験者の話を集めて調べないと、実感として全然わからないです。私の知識は、戦争中のことを書いた本や、映画などからえた物がほとんどで、後世のバイアスのかかったものですから、真実とは限らないと思います。
ある時期(今でも?)、戦争というとすごいタブーで、お父上を怒らせたような先生もおられたと思います。
そもそも戦争中に敵性語だから、とすべての外来語を日本語になおさせて、学校でも英語を教えない、といった愚をおかした国民性です。(一方連合軍側は日本語を研究して、日本軍の暗号をつぎつぎ解読していったそうで、はじめっから勝負になってません。)
今でも「核武装」について、議論することすらゆるさない、といった風潮、(もちろん核武装には反対ですが、それを意見としてのべればいいわけで、)なんだか戦時中のかたくなな風潮に似ているような気がします。
それを、おかしい、と声を大にして、理路整然と抗議されたお父上は、まさに尊敬したい大人です。

恐縮いたします。84歳になる父は今もつつがなく暮らしております。
人生とは面白いもので、その後の父は15年もの間、仕事で米国生活を送ることになりました。既に戦後40年近く経っていましたから、楽しく仕事ができたようです。人生で最も充実した仕事ができた時期とも申しておりました。
既に社会人になっていた私も、米国の家に遊びに行くのがとても楽しみでした。
昨日の敵は今日の友、感慨深いものです。

へちかん様

お父上、84歳の今もお元気でいらっしゃるのですね。なによりです。
もっともっと長生きしていただかなくては。
戦争の話、戦争の敵国であった国での話、まわりの方にたくさんお話を伝えていただきたいです。

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